思わず」と語り終って盃《さかずき》に盛る苦き酒を一息に飲み干して虹《にじ》の如き気を吹く。妹は立ってわが室に入る。
 花に戯むるる蝶《ちょう》のひるがえるを見れば、春に憂《うれい》ありとは天下を挙げて知らぬ。去れど冷やかに日落ちて、月さえ闇《やみ》に隠るる宵《よい》を思え。――ふる露のしげきを思え。――薄き翼のいかばかり薄きかを思え。――広き野の草の陰に、琴の爪《つめ》ほど小《ちいさ》きものの潜むを思え。――畳む羽に置く露の重きに過ぎて、夢さえ苦しかるべし。果知らぬ原の底に、あるに甲斐《かい》なき身を縮めて、誘う風にも砕くる危うきを恐るるは淋《さび》しかろう。エレーンは長くは持たぬ。
 エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺め暮している。その盾には丈高き女の前に、一人の騎士が跪《ひざま》ずいて、愛と信とを誓える模様が描かれている。騎士の鎧は銀、女の衣は炎の色に燃えて、地《じ》は黒に近き紺を敷く。赤き女のギニヴィアなりとは憐れなるエレーンの夢にだも知る由がない。
 エレーンは盾の女を己れと見立てて、跪まずけるをランスロットと思う折さえある。かくあれ[#「かくあれ」に傍点]と念ずる思いの、いつか心の裏《うち》を抜け出でて、かくの通り[#「かくの通り」に傍点]と盾の表にあらわれるのであろう。かくありて後[#「かくありて後」に傍点]と、あらぬ礎《いしずえ》を一度び築ける上には、そら事を重ねて、そのそら事の未来さえも想像せねばやまぬ。
 重ね上げたる空想は、また崩れる。児戯に積む小石の塔を蹴《け》返《かえ》す時の如くに崩れる。崩れたるあとのわれに帰りて見れば、ランスロットはあらぬ。気を狂いてカメロットの遠きに走れる人の、わが傍《そば》にあるべき所謂《いわれ》はなし。離るるとも、誓《ちかい》さえ渝《かわ》らずば、千里を繋ぐ牽《ひ》き綱《つな》もあろう。ランスロットとわれは何を誓える? エレーンの眼には涙が溢《あふ》れる。
 涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓には洩《も》れず。この誓だに破らずばと思い詰める。エレーンの頬の色は褪《あ》せる。
 死ぬ事の恐しきにあらず、死したる後にランスロットに逢いがたきを恐るる。去れどこの世にての逢いがたきに比ぶれば、未来に逢うのかえって易《やす》きかとも思う。罌粟《けし》散るを憂《う》しとのみ眺むべからず、散ればこそまた咲く夏もあり。エレーンは食を断った。
 衰えは春野焼く火と小さき胸を侵《お》かして、愁《うれい》は衣に堪えぬ玉骨《ぎょっこつ》を寸々《すんずん》に削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと貪《むさぼ》る願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、束《つか》の間《ま》の春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、日に開く蕾《つぼみ》の中にも恨《うらみ》はあり。円《まる》く照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。
 今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの文《ふみ》かきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なんとする人の言の葉を一々に書き付ける。
「天《あめ》が下《した》に慕える人は君ひとりなり。君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。陽炎《かげろう》燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、土水《どすい》の因果を受くる理《ことわり》なしと思えば。睫《まつげ》に宿る露の珠《たま》に、写ると見れば砕けたる、君の面影の脆《もろ》くもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらば濺《そそ》げ。基督《キリスト》も知る、死ぬるまで清き乙女《おとめ》なり」
 書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の顫《ふる》えたるは、老《おい》のためとも悲《かなしみ》のためとも知れず。
 女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこの文《ふみ》を握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しき衣《きぬ》にわれを着飾り給え。隙間《すきま》なく黒き布しき詰めたる小船《こぶね》の中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇《ばら》、白き百合《ゆり》を採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
 かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期《ご》なし。父と兄とは唯々《いい》として遺言の如《ごと》く、憐れなる少女《おとめ》の亡骸《なきがら》を舟に運ぶ。
 古き江に漣《さざなみ》さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩《こ》むる陰を離れて中流に漕《こ》ぎ出《い》づる。櫂《かい》操
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