眉《まゆ》を張る。女は「あな」とのみ髪に挿《さ》す花の色を顫《ふる》わす。
「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの槍《やり》を受け損じてか、鎧《よろい》の胴を二寸|下《さが》りて、左の股《また》に創《きず》を負う……」
「深き創か」と女は片唾《かたず》を呑んで、懸念の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。
「鞍《くら》に堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに暮れて、蒼《あお》き夕《ゆうべ》を草深き原のみ行けば、馬の蹄《ひづめ》は露に濡《ぬ》れたり。――二人は一言《ひとこと》も交《か》わさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを偲《しの》ぶ。風渡る梢《こずえ》もなければ馬の沓《くつ》の地を鳴らす音のみ高し。――路は分れて二筋となる」
「左へ切ればここまで十|哩《マイル》じゃ」と老人が物知り顔にいう。
「ランスロットは馬の頭《かしら》を右へ立て直す」
「右? 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。
「そのシャロットの方《かた》へ――後《あと》より呼ぶわれを顧みもせで轡《くつわ》を鳴らして去る。やむなくてわれも従う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくも嘶《いなな》ける事なり。嘶く声の果《はて》知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の足掻《あがき》の常の如く、わが手綱《たづな》の思うままに運びし時は、ランスロットの影は、夜《よ》と共に微《かす》かなる奥に消えたり。――われは鞍を敲《たた》いて追う」
「追い付いてか」と父と妹は声を揃《そろ》えて問う。
「追い付ける時は既に遅くあった。乗る馬の息の、闇《やみ》押し分けて白く立ち上るを、いやがうえに鞭《むちう》って長き路を一散に馳《か》け通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる時、われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。黒きものは聞かざる真似《まね》して行く。幽《かす》かに聞えたるは轡《くつわ》の音か。怪しきは差して急げる様もなきに容易《たやす》くは追い付かれず。漸《ようや》くの事|間《あいだ》一丁ほどに逼《せま》りたる時、黒きものは夜の中に織り込まれたる如く、ふっと消える。合点《がてん》行かぬわれは益《ますます》追う。シャロットの入口に渡したる石橋に、蹄も砕けよと乗り懸けしと思えば、馬は何物にか躓《つまず》きて前足を折る。騎《の》るわれは鬣《たてがみ》をさかに扱《こ》いて前にのめる。戞《かつ》と打つは石の上と心得しに、われより先に斃《たお》れたる人の鎧《よろい》の袖なり」
「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。
「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」
「倒れたるはランスロットか」と妹は魂《たま》消《ぎ》ゆるほどの声に、椅子の端《はじ》を握る。椅子の足は折れたるにあらず。
「橋の袂《たもと》の柳の裏《うち》に、人住むとしも見えぬ庵室《あんしつ》あるを、試みに敲けば、世を逃《のが》れたる隠士の居《きょ》なり。幸いと冷たき人を担《かつ》ぎ入るる。兜《かぶと》を脱げば眼さえ氷りて……」
「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを蘇《よみがえ》してか」と父は話し半ばに我句を投げ入るる。
「よみ返しはしたれ。よみにある人と択《えら》ぶ所はあらず。われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。魔に襲われて夢に物いう人の如く、あらぬ事のみ口走る。あるときは罪々と叫び、あるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。隠士が心を込むる草の香《かお》りも、煮えたる頭《かしら》には一点の涼気を吹かず。……」
「枕辺《まくらべ》にわれあらば」と少女《おとめ》は思う。
「一夜《いちや》の後《のち》たぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士の眠《ねむり》覚めて、病む人の顔色の、今朝《けさ》如何《いかが》あらんと臥所《ふしど》を窺《うかが》えば――在《あ》らず。剣《つるぎ》の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い[#「罪はわれを追い」に傍点]、われは罪を追う[#「われは罪を追う」に傍点]とある」
「逃《のが》れしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。
「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。茫々《ぼうぼう》と吹く夏野の風の限りは知らず。西東日の通う境は極《きわ》めがたければ、独《ひと》り帰り来ぬ。――隠士はいう、病《やまい》怠らで去る。かの人の身は危うし。狂いて走る方《かた》はカメロットなるべしと。うつつのうちに口走れる言葉にてそれと察せしと見ゆれど、われは確《しか》と、さは
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