《は》いかかる春の頃なり。路《みち》に迷いて御堂《みどう》にしばし憩《いこ》わんと入れば、銀に鏤《ちり》ばむ祭壇の前に、空色の衣《きぬ》を肩より流して、黄金《こがね》の髪に雲を起せるは誰《た》ぞ」
 女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。床《ゆか》しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然《こつぜん》と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、凋《しお》れたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、天《あま》つ下《くだ》れるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
 逝《ゆ》ける日[#「日」に傍点]は追えども帰らざるに逝ける事[#「事」に傍点]は長《とこ》しえに暗きに葬むる能《あた》わず。思うまじと誓える心に発矢《はっし》と中《あた》る古き火花もあり。
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして何処《いずこ》へとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を抑《おさ》えながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう。――王妃の顔は屍《しかばね》を抱《いだ》くが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵《ののし》る如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼《せま》る。
 入口に掛けたる厚き幕は総《ふさ》に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く丈《たけ》高き一人の男があらわれた。モードレッドである。
 モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いて入《い》るはアグラヴェン、逞《たく》ましき腕の、寛《ゆる》き袖を洩れて、赭《あか》き頸《くび》の、かたく衣の襟《えり》に括《くく》られて、色さえ変るほど肉づける男である。二人の後《あと》には物色する遑《いとま》なきに、どやどやと、我勝ちに乱れ入りて、モードレッドを一人《ひとり》前に、ずらりと並ぶ、数は凡《すべ》てにて十二人。何事かなくては叶《かな》わぬ。
 モードレッドは、王に向って会釈せる頭《かしら》を擡《もた》げて、そこ力のある声にていう。「罪あるを罰するは王者《おうしゃ》の事か」
「問わずもあれ」と答えたアーサーは今
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