《こく》裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧《くだ》けよと圧《お》す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶《もだえ》を人知れぬ方《かた》へ洩《も》らさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また己《おのれ》を誣《し》いたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に咽《のど》を転《まろ》び出《い》でたり。
ひく浪《なみ》の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛《か》む勢《いきおい》の、前よりは凄《すさま》じきを、浪|自《みずか》らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然《ゆうぜん》として常よりも切なきわれに復《かえ》る。何事も解せぬ風情《ふぜい》に、驚ろきの眉《まゆ》をわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーは少《しば》らく前のアーサーにあらず。
人を傷《きずつ》けたるわが罪を悔ゆるとき、傷負える人の傷ありと心付かぬ時ほど悔《くい》の甚《はなはだ》しきはあらず。聖徒に向って鞭《むち》を加えたる非の恐しきは、鞭《むちう》てるものの身に跳《は》ね返る罰なきに、自《みずか》らとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然《しょうぜん》として骨に徹する寒さを知る。
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、嫁《とつ》ぎてより幾夜か経たる。赤き袖の主のランスロットを思う事は、御身《おんみ》のわれを思う如くなるべし。贈り物あらば、われも十日を、二十日《はつか》を、帰るを、忘るべきに、罵《のの》しるは卑《いや》し」とアーサーは王妃の方《かた》を見て不審の顔付である。
「美しき少女[#「美しき少女」に傍点]!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては憐《あわれ》を寄せたりとも見えず。
アーサーは椅子に倚る身を半ば回《めぐ》らしていう。「御身とわれと始めて逢える昔を知るか。丈《じょう》に余る石の十字を深く地に埋《うず》めたるに、蔦《つた》這
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