》えたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアはまた口を開く。
「後《おく》れて行くものは後れて帰る掟《おきて》か」といい添えて片頬《かたほ》に笑う。女の笑うときは危うい。
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、錐《きり》に刺されし痛《いたみ》を受けて、すわやと躍り上る。耳の裏には颯《さ》と音がして熱き血を注《さ》す。アーサーは知らぬ顔である。
「あの袖《そで》の主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿毛《さしげ》に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女[#「美しき少女」に傍点]というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾《いく》日《ひ》を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
「美しき少女[#「美しき少女」に傍点]! 美しき少女[#「美しき少女」に傍点]!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き履《くつ》に三たび石の床《ゆか》を踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。
夫に二心《ふたごころ》なきを神の道との教《おしえ》は古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを嬉《うれ》しと見しも君がためなり。春風《しゅんぷう》に心なく、花|自《おのずか》ら開く。花に罪ありとは下《くだ》れる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡の明《あきらか》なるは鏡の徳なり。かく観ずる裡《うち》に、人にも世にも振り棄《す》てられたる時の慰藉《いしゃ》はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆《くつが》えされて、踵《くびす》を支《ささ》うるに一塵《いちじん》だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎《とが》も恐れず、世を憚《はばか》りの関《せき》一重《ひとえ》あなたへ越せば、生涯の落《お》ち付《つき》はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府《よみ》へ隕《お》つる。わが坐《す》わる床几の底抜けて、わが乗る壇の床|崩《くず》れて、わが踏む大地の殻
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