く。濁世《じょくせ》にはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯《たてよこ》の目にも入ると覚しく、焔のみは※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》を離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋は焚《や》け落つるかと怪しまれて明るい。
 恋の糸と誠《まこと》の糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いを経《たて》に怒りを緯《よこ》に、霰《あられ》ふる木枯《こがらし》の夜を織り明せば、荒野の中に白き髯《ひげ》飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき紅《くれない》と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和《おとな》しき黄と思い上がれる紫を交《かわ》る交《がわ》るに畳めば、魔に誘われし乙女《おとめ》の、我《われ》は顔《がお》に高ぶれる態《さま》を写す。長き袂《たもと》に雲の如くにまつわるは人に言えぬ願《ねがい》の糸の乱れなるべし。
 シャロットの女は眼《まなこ》深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日の上《のぼ》りてより、刻を盛る砂時計の九《ここの》たび落ち尽したれば、今ははや午《ひる》過ぎなるべし。窓を射る日の眩《まば》ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟《どうくつ》の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手《めて》より投げたる梭《ひ》を左手《ゆんで》に受けて、女はふと鏡の裡《うち》を見る。研《と》ぎ澄したる剣《つるぎ》よりも寒き光の、例《いつも》ながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事《なにごと》ぞ!音なくて颯《さ》と曇るは霧か、鏡の面《おもて》は巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うて往《ゆ》きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼《まぶた》は黒き睫《まつげ》と共に微《かす》かに顫《ふる》えた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷《いっさつ》に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見《あら》われる。梭は再び動き出す。
 女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。
  うつせみの世を、
  うつつに住めば、
  住みうからまし、
  むかしも今も。」
  うつくしき恋、
  うつす鏡に、
  色やうつろう、
  朝な夕なに。」
 鏡の中なる遠柳
前へ 次へ
全26ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング