て、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人|末期《まつご》の覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月《いくとしつき》の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝《あした》に向い夕《ゆうべ》に向い、日に向い月に向いて、厭《あ》くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞《おそれ》ありとは夢にだも知らず。湛然《たんぜん》として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗《えいろう》たる面《おもて》を過ぐる森羅《しんら》の影の、繽紛《ひんぷん》として去るあとは、太古の色なき境《さかい》をまのあたりに現わす。無限上に徹する大空《たいくう》を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏《うち》に圧《お》し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。
夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍《そば》に坐りて、夜ごと日ごとの※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》を織る。ある時は明るき※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》を織り、ある時は暗き※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》を織る。
シャロットの女の投ぐる梭《ひ》の音を聴く者は、淋《さび》しき皐《おか》の上に立つ、高き台《うてな》の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代《よ》にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居《すまい》である。蔦《つた》鎖《とざ》す古き窓より洩《も》るる梭の音の、絶間《たえま》なき振子《しんし》の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静《しずか》なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝《まさ》る。恐る恐る高き台を見上げたる行人《こうじん》は耳を掩《おお》うて走る。
シャロットの女の織るは不断の※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》である。草むらの萌草《もえぐさ》の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪《なみ》の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地《じ》に、燃ゆる焔《ほのお》の色にて十字架を描
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