sせきがく》アスカムをして舌を捲《ま》かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見《そうけん》するの好材料として何人《なんびと》の脳裏《のうり》にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている。
 始は両方の眼が霞《かす》んで物が見えなくなる。やがて暗い中の一点にパッと火が点ぜられる。その火が次第次第に大きくなって内に人が動いているような心持ちがする。次にそれがだんだん明るくなってちょうど双眼鏡《そうがんきょう》の度を合せるように判然と眼に映じて来る。次にその景色《けしき》がだんだん大きくなって遠方から近づいて来る。気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端《はじ》には男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬《また》たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停《とま》る。男は前に穴倉の裏《うち》で歌をうたっていた、眼の凹《くぼ》んだ煤色《すすいろ》をした、背《せ》の低い奴だ。磨《と》ぎすました斧《おの》を左手《ゆんで》に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余
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