血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。
 この倫敦塔を塔橋《とうきょう》の上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはた古《いにし》えの人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺《なが》め入った。冬の初めとはいいながら物静かな日である。空は灰汁桶《あくおけ》を掻《か》き交《ま》ぜたような色をして低く塔の上に垂れ懸っている。壁土を溶《とか》し込んだように見ゆるテームスの流れは波も立てず音もせず無理矢理《むりやり》に動いているかと思わるる。帆懸舟《ほかけぶね》が一|隻《せき》塔の下を行く。風なき河に帆をあやつるのだから不規則な三角形の白き翼がいつまでも同じ所に停《とま》っているようである。伝馬《てんま》の大きいのが二|艘《そう》上《のぼ》って来る。ただ一人の船頭《せんどう》が艫《とも》に立って艪《ろ》を漕《こ》ぐ、これもほとんど動かない。塔橋の欄干《らんかん》のあたりには白き影がちらちらする、大方《おおかた》鴎《かもめ》であろう。見渡したところすべての物が静かである。物憂《ものう》げに見える、眠っている、皆過去の感じである。そうしてその中に冷然
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