がして余の傍《そば》へ歩いて来るものがある。振り向いて見るとビーフ・イーターである。ビーフ・イーターと云うと始終|牛《ぎゅう》でも食っている人のように思われるがそんなものではない。彼は倫敦塔の番人である。絹帽《シルクハット》を潰《つぶ》したような帽子を被《かぶ》って美術学校の生徒のような服を纏《まと》うている。太い袖《そで》の先を括《くく》って腰のところを帯でしめている。服にも模様がある。模様は蝦夷人《えぞじん》の着る半纏《はんてん》についているようなすこぶる単純の直線を並べて角形《かくがた》に組み合わしたものに過ぎぬ。彼は時として槍《やり》をさえ携《たずさ》える事がある。穂の短かい柄《え》の先《さき》に毛の下がった三国志《さんごくし》にでも出そうな槍をもつ。そのビーフ・イーターの一人が余の後《うし》ろに止まった。彼はあまり背《せ》の高くない、肥《ふと》り肉《じし》の白髯《しろひげ》の多いビーフ・イーターであった。「あなたは日本人ではありませんか」と微笑しながら尋ねる。余は現今の英国人と話をしている気がしない。彼が三四百年の昔からちょっと顔を出したかまたは余が急に三四百年の古《いにし》
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