チと出る。磨ぎ手は声を張り揚《あ》げて歌い出す。
  切れぬはずだよ女の頸《くび》は恋の恨《うら》みで刃が折れる。
シュシュシュと鳴る音のほかには聴えるものもない。カンテラの光りが風に煽《あお》られて磨ぎ手の右の頬を射《い》る。煤《すす》の上に朱を流したようだ。「あすは誰の番かな」とややありて髯が質問する。「あすは例の婆様《ばあさま》の番さ」と平気に答える。
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生える白髪《しらが》を浮気《うわき》が染める、骨を斬られりゃ血が染める。
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と高調子《たかぢょうし》に歌う。シュシュシュと轆轤《ろくろ》が回《ま》わる、ピチピチと火花が出る。「アハハハもう善《よ》かろう」と斧を振り翳《かざ》して灯影《ほかげ》に刃《は》を見る。「婆様《ばあさま》ぎりか、ほかに誰もいないか」と髯がまた問をかける。「それから例のがやられる」「気の毒な、もうやるか、可愛相《かわいそう》にのう」といえば、「気の毒じゃが仕方がないわ」と真黒な天井を見て嘯《うそぶ》く。
 たちまち窖《あな》も首斬りもカンテラも一度に消えて余はボーシャン塔の真中《まんなか》に茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》んでいる。ふと気がついて見ると傍《そば》に先刻《さっき》鴉《からす》に麺麭《パン》をやりたいと云った男の子が立っている。例の怪しい女ももとのごとくついている。男の子が壁を見て「あそこに犬がかいてある」と驚いたように云う。女は例のごとく過去の権化《ごんげ》と云うべきほどの屹《きっ》とした口調《くちょう》で「犬ではありません。左りが熊、右が獅子《しし》でこれはダッドレー家《け》の紋章です」と答える。実のところ余も犬か豚だと思っていたのであるから、今この女の説明を聞いてますます不思議な女だと思う。そう云えば今ダッドレーと云ったときその言葉の内に何となく力が籠《こも》って、あたかも己《おの》れの家名でも名乗《なの》ったごとくに感ぜらるる。余は息を凝《こ》らして両人《ふたり》を注視する。女はなお説明をつづける。「この紋章を刻《きざ》んだ人はジョン・ダッドレーです」あたかもジョンは自分の兄弟のごとき語調である。「ジョンには四人の兄弟があって、その兄弟が、熊と獅子の周囲《まわり》に刻みつけられてある草花でちゃんと分ります」見るとなるほど四通《よとお》りの花だか葉だかが油絵の枠《わく》のように
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