《くだ》ける明日《あす》を予期した彼らは冷やかなる壁の上にただ一となり二となり線となり字となって生きんと願った。壁の上に残る横縦《よこたて》の疵《きず》は生《せい》を欲する執着《しゅうじゃく》の魂魄《こんぱく》である。余が想像の糸をここまでたぐって来た時、室内の冷気が一度に背《せ》の毛穴から身の内に吹き込むような感じがして覚えずぞっとした。そう思って見ると何だか壁が湿《しめ》っぽい。指先で撫《な》でて見るとぬらりと露にすべる。指先を見ると真赤《まっか》だ。壁の隅からぽたりぽたりと露の珠《たま》が垂れる。床《ゆか》の上を見るとその滴《したた》りの痕《あと》が鮮やかな紅《くれな》いの紋を不規則に連《つら》ねる。十六世紀の血がにじみ出したと思う。壁の奥の方から唸《うな》り声さえ聞える。唸り声がだんだんと近くなるとそれが夜を洩《も》るる凄《すご》い歌と変化する。ここは地面の下に通ずる穴倉でその内には人が二人《ふたり》いる。鬼の国から吹き上げる風が石の壁の破《わ》れ目《め》を通って小《ささ》やかなカンテラを煽《あお》るからたださえ暗い室《へや》の天井も四隅《よすみ》も煤色《すすいろ》の油煙《ゆえん》で渦巻《うずま》いて動いているように見える。幽《かす》かに聞えた歌の音は窖中《こうちゅう》にいる一人の声に相違ない。歌の主《ぬし》は腕を高くまくって、大きな斧《おの》を轆轤《ろくろ》の砥石《といし》にかけて一生懸命に磨《と》いでいる。その傍《そば》には一|挺《ちょう》の斧が抛《な》げ出してあるが、風の具合でその白い刃《は》がぴかりぴかりと光る事がある。他の一人は腕組をしたまま立って砥《と》の転《まわ》るのを見ている。髯《ひげ》の中から顔が出ていてその半面をカンテラが照らす。照らされた部分が泥だらけの人参《にんじん》のような色に見える。「こう毎日のように舟から送って来ては、首斬《くびき》り役も繁昌《はんじょう》だのう」と髯がいう。「そうさ、斧を磨《と》ぐだけでも骨が折れるわ」と歌の主《ぬし》が答える。これは背の低い眼の凹《くぼ》んだ煤色《すすいろ》の男である。「昨日《きのう》は美しいのをやったなあ」と髯が惜しそうにいう。「いや顔は美しいが頸《くび》の骨は馬鹿に堅い女だった。御蔭でこの通り刃が一分ばかりかけた」とやけに轆轤を転《ころ》ばす、シュシュシュと鳴る間《あいだ》から火花がピチピ
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