人《にょにん》の頼み引き受けぬ君はつれなし」と云う。
男は鎖りを指の先に巻きつけて思案の体《てい》である。かいつぶり[#「かいつぶり」に傍点]はふいと沈む。ややありていう「牢守《ろうも》りは牢の掟《おきて》を破りがたし。御子《みこ》らは変る事なく、すこやかに月日を過させたもう。心安く覚《おぼ》して帰りたまえ」と金の鎖りを押戻す。女は身動きもせぬ。鎖ばかりは敷石の上に落ちて鏘然《そうぜん》と鳴る。
「いかにしても逢う事は叶《かな》わずや」と女が尋《たず》ねる。
「御気の毒なれど」と牢守《ろうもり》が云い放つ。
「黒き塔の影、堅き塔の壁、寒き塔の人」と云いながら女はさめざめと泣く。
舞台がまた変る。
丈《たけ》の高い黒装束《くろしょうぞく》の影が一つ中庭の隅にあらわれる。苔《こけ》寒き石壁の中《うち》からスーと抜け出たように思われた。夜と霧との境に立って朦朧《もうろう》とあたりを見廻す。しばらくすると同じ黒装束の影がまた一つ陰の底から湧《わ》いて出る。櫓《やぐら》の角に高くかかる星影を仰いで「日は暮れた」と背《せ》の高いのが云う。「昼の世界に顔は出せぬ」と一人が答える。「人殺しも多くしたが今日ほど寝覚《ねざめ》の悪い事はまたとあるまい」と高き影が低い方を向く。「タペストリの裏《うら》で二人の話しを立ち聞きした時は、いっその事|止《や》めて帰ろうかと思うた」と低いのが正直に云う。「絞《し》める時、花のような唇《くちびる》がぴりぴりと顫《ふる》うた」「透《す》き通るような額《ひたい》に紫色の筋が出た」「あの唸《うな》った声がまだ耳に付いている」。黒い影が再び黒い夜の中に吸い込まれる時櫓の上で時計の音ががあんと鳴る。
空想は時計の音と共に破れる。石像のごとく立っていた番兵は銃を肩にしてコトリコトリと敷石の上を歩いている。あるきながら一件《いっけん》と手を組んで散歩する時を夢みている。
血塔の下を抜けて向《むこう》へ出ると奇麗な広場がある。その真中《まんなか》が少し高い。その高い所に白塔がある。白塔は塔中のもっとも古きもので昔《むか》しの天主である。竪《たて》二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚さ一丈五尺、四方に角楼《すみやぐら》が聳《そび》えて所々にはノーマン時代の銃眼《じゅうがん》さえ見える。千三百九十九年国民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位《じょうい
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