》をせまったのはこの塔中である。僧侶、貴族、武士、法士の前に立って彼が天下に向って譲位を宣告したのはこの塔中である。その時譲りを受けたるヘンリーは起《た》って十字を額と胸に画して云う「父と子と聖霊の名によって、我れヘンリーはこの大英国の王冠と御代とを、わが正しき血、恵みある神、親愛なる友の援《たすけ》を藉《か》りて襲《つ》ぎ受く」と。さて先王の運命は何人《なんびと》も知る者がなかった。その死骸がポント・フラクト城より移されて聖《セント》ポール寺に着した時、二万の群集は彼の屍《しかばね》を繞《めぐ》ってその骨立《こつりつ》せる面影《おもかげ》に驚かされた。あるいは云う、八人の刺客《せっかく》がリチャードを取り巻いた時彼は一人の手より斧《おの》を奪いて一人を斬《き》り二人を倒した。されどもエクストンが背後より下《くだ》せる一撃のためについに恨《うらみ》を呑《の》んで死なれたと。ある者は天を仰《あお》いで云う「あらずあらず。リチャードは断食《だんじき》をして自《みずか》らと、命の根をたたれたのじゃ」と。いずれにしてもありがたくない。帝王の歴史は悲惨の歴史である。
 階下の一室は昔しオルター・ロリーが幽囚《ゆうしゅう》の際|万国史《ばんこくし》の草《そう》を記した所だと云い伝えられている。彼がエリザ式の半ズボンに絹の靴下を膝頭《ひざがしら》で結んだ右足を左《ひだ》りの上へ乗せて鵞《が》ペンの先《さき》を紙の上へ突いたまま首を少し傾けて考えているところを想像して見た。しかしその部屋は見る事が出来なかった。
 南側から入って螺旋状《らせんじょう》の階段を上《のぼ》るとここに有名な武器陳列場がある。時々手を入れるものと見えて皆ぴかぴか光っている。日本におったとき歴史や小説で御目にかかるだけでいっこう要領を得なかったものが一々明瞭になるのははなはだ嬉しい。しかし嬉しいのは一時の事で今ではまるで忘れてしまったからやはり同じ事だ。ただなお記憶に残っているのが甲冑《かっちゅう》である。その中《うち》でも実に立派だと思ったのはたしかヘンリー六世の着用したものと覚えている。全体が鋼鉄製で所々に象嵌《ぞうがん》がある。もっとも驚くのはその偉大な事である。かかる甲冑を着けたものは少なくとも身の丈《たけ》七尺くらいの大男でなくてはならぬ。余が感服してこの甲冑を眺《なが》めているとコトリコトリと足音
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