のか以後はたしなむが善かろうときめつけられた。それから従順なるペンはけっして我輩に口をきかない。ただし口をきかないのは妻君の内にいる時に限るので、山の神が外へ出た時には依然としてもとのペンである。もとのペンが無言の業をさせられた口惜しまぎれに折を見て元利共取返そうと云う勢でくるからたまらない。一週間無理に断食をした先生が八日目に御櫃《おひつ》を抱えて奮戦するの慨がある。
 例のごとくデンマークヒルを散歩して帰ると、我輩のために戸を開いたるペンは直ちにしゃべり出した。果せるかな家内のものは皆新宅へ荷物を片付《かたづけ》に行って伽藍堂《がらんどう》の中に残るは我輩とペンばかりである。彼は立板に水を流すがごとく※[#「女+尾」、第3水準1-15-81]々《びび》十五分間ばかりノベツに何か云っているが毫《ごう》もわからない。能弁なる彼は我輩に一言の質問をも挟《さしは》さましめざるほどの速度をもって弁じかけつつある。我輩は仕方がないから話しは分らぬものと諦《あきら》めてペンの顔の造作《ぞうさく》の吟味にとりかかった。温厚なる二重瞼《ふたえまぶた》と先が少々逆戻りをして根に近づいている鼻とあくまで紅《くれな》いに健全なる顔色とそして自由自在に運動を縦《ほしい》ままにしている舌と、舌の両脇に流れてくる白き唾とをしばらくは無心に見つめていたが、やがて気の毒なような可愛想のようなまたおかしいような五目鮨司《ごもくずし》のような感じが起って来た。我輩はこの感じを現わすために唇を曲げて少しく微笑を洩《も》らした。無邪気なるペンはその辺に気のつくはずはない。自分の噺《はなし》に身が入《い》って笑うのだと我点《がてん》したと見えて赤い頬に笑靨《えくぼ》をこしらえてケタケタ笑った。この頓珍漢《とんちんかん》なる出来事のために我輩はいよいよ変テコな心持になる、ペンはますます乗気になる、始末がつかない。彼の云う所をあそこで一言ここで一句、分ったところだけ綜合《そうごう》して見るとこういうのらしい。昨日差配人が談判に来た。内の女連はバツが悪いから留守を使って追い返した。この玄関払の使命を完《まっと》うしたのがペンである。自分は嘘《うそ》をつくのは嫌《いや》だ。神さまにすまない。しかし主命もだしがたしでやむをえず嘘をついた。まずたいていここら当りだろうと遠くの火事を見るように見当をつけてようやく自分の
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