京都大学の田島錦治、井上密などで、この間の戦争に露西亜《ロシア》へ捕虜になって行った内務省の小城なども居ったと思う。学舎の如《ごと》きは実に不完全なもので、講堂などの汚《きた》なさと来たら今の人には迚《とて》も想像出来ない程だった。真黒になった腸《はらわた》の出た畳《たたみ》が敷いてあって机などは更にない。其処《そこ》へ順序もなく坐り込んで講義を聞くのであったが、輪講の時などは恰度《ちょうど》カルタでも取る様な工合《ぐあい》にしてやったものである。輪講の順番を定めるには、竹筒《たけづっぽ》の中へ細長い札の入って居るのを振って、生徒は其中から一本|宛《ずつ》抜いてそれに書いてある番号で定《き》めたものであるが、其番号は単に一二三とは書いてなくて、一東、二冬、三江、四支、五微、六魚、七虞、八斉、九佳、十灰と云った様に何処迄《どこまで》も漢学的であった。中には、一、二、三の数字を抜いて唯東、冬、江と韻許《いんばか》り書いてあるのもあって、虞を取れば七番、微を取れば五番ということが直《すぐ》に分るのだから、それで定《き》めるのもあった。講義は朝の六時か七時頃から始めるので、往昔《むかし》の寺子
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