に就《つい》て何等の経験もない余は其時丸善からペリカンと称するのを二本買って帰った。そうして夫《それ》をいまだに用いているのである。が、不幸にして余のペリカンに対する感想は甚《はなは》だ宜《よろ》しくなかった。ペリカンは余の要求しないのに印気《インキ》を無暗《むやみ》にぽたぽた原稿紙の上へ落したり、又は是非墨色を出して貰《もら》わなければ済《す》まない時、頑《がん》として要求を拒絶したり、随分持主を虐待した。尤《もっと》も持主たる余の方でもペリカンを厚遇しなかったかも知れない。無精《ぶしょう》な余は印気《インキ》がなくなると、勝手次第に机の上にある何《ど》んな印気でも構わずにペリカンの腹の中へ注《つ》ぎ込んだ。又ブリュー・ブラックの性来|嫌《きらい》な余は、わざわざセピヤ色の墨を買って来て、遠慮なくペリカンの口を割って呑《の》ました。其上無経験な余は如何《いか》にペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。現にペリカンが如何に出渋っても、余は未《いま》だかつて彼を洗濯した試《ためし》がなかった。夫《それ》でペリカンの方でも半《なか》ば余に愛想《あいそ》を尽かし、余の方でも半ばペリカンを見限《みかぎ》って、此正月「彼岸過迄《ひがんすぎまで》」を筆するときは又|一《ひ》と時代退歩して、ペンとそうしてペン軸《じく》の旧弊な昔に逆戻りをした。其時余は始めて離別した第一の細君を後から懐《なつ》かしく思う如く、一旦《いったん》見棄《みすて》たペリカンに未練の残っている事を発見したのである。唯《ただ》のペンを用い出した余は、印気《インキ》の切れる度毎《たびごと》に墨壺《すみつぼ》のなかへ筆を浸《ひた》して新たに書き始める煩《わずら》わしさに堪《た》えなかった。幸にして余の原稿が夫程《それほど》の手数が省《はぶ》けたとて早く出来上る性質のものでもなし、又ペンにすれば余の好むセピヤ色で自由に原稿紙を彩《いろ》どる事が出来るので、まあ「彼岸過迄」の完結迄はペンで押し通す積《つもり》でいたが、其決心の底には何《ど》うしても多少の負惜しみが籠《こも》っていた様である。
 余の如く機械的の便利には夫程《それほど》重きを置く必要のない原稿ばかり書いているものですら、又買い損なったか、使い損なったため、万年筆には多少|手古擦《てこず》っているものですら、愈《いよいよ》万年筆を全廃するとなると此位の不
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング