本の状態では、西洋の煙管気狂《パイプきちがい》の十分の一も無かろうと思う。だから丸善で売れる一日に百本の万年筆の九十九本迄は、尋常の人間の必要に逼《せま》られて机上《きじょう》若《もし》くはポッケット内に備え付ける実用品と見て差支《さしつかえ》あるまい。して見ると、万年筆が輸入されてから今日迄に既に何年を経過したか分らないが、兎《と》に角《かく》高価の割には大変需要の多いものになりつつあるのは争う可《べか》らざる事実の様である。
 万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。丸善へ取り寄せてあるのでも既に六十五円とかいう高価なものがあるとか聞いた。固《もと》より一般の需要は十円内外の低廉《ていれん》な種類に限られているのだろうが、夫《それ》にしても、一つ一銭のペンや一本三銭の水筆に比べると何百倍という高価に当るのだから、それが日に百本も売れる以上は、我々の購買力が此の便利ではあるが贅沢品《ぜいたくひん》と認めなければならないものを愛玩《あいかん》[#「あいかん」はママ]するに適当な位進んで来たのか、又は座右《ざゆう》に欠くべからざる必要品として価の廉不廉に拘《かか》わらず重宝《ちょうほう》がられるのか何方《どちら》かでなければならない。然《しか》し今其源因を一つに片付けるのは愚《ぐ》の至として、又事実の許す如く、しばらく両方の因数が相合して此需要を引き起したとして、余はとくに余の見地から見て、後者の方に重きを置きたいのである。
 自白すると余は万年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釈する程に精通していない素人《しろうと》なのである。始めて万年筆を用い出してから僅《わず》か三四年にしかならないのでも親しみの薄い事は明らかに分る。尤《もっと》も十二年前に洋行するとき親戚のものが餞別《せんべつ》として一本|呉《く》れたが、夫《それ》はまだ使わないうちに船のなかで器械体操の真似《まね》をしてすぐ壊して仕舞《しま》った。夫《それ》から外国にいる間は常にペンを使って事を足していたし、帰ってから原稿を書かなくてはならない境遇に置かれても、下手な字をペンでがしがし書いて済ましていた。それで三四年前になって何故《なぜ》万年筆に改めようと急に思い立ったか、其理由は今|一寸《ちょっと》思い出せないが、第一に便利という実際的な動機に支配されたのは事実に違ない。万年筆
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