に捉《とら》えられて、そして、事件の発展なり、性格の活動なりを、其自分の目的の都合の可いように、作家の私で殊更《ことさら》ああ云う結果に持ち来《きた》らしたと言われては、仮令《たとえ》、其現わさんとした哲学なり、教訓なりを現わす目的を如何《いか》に能《よ》く達しても、作家としての私の面目は潰《つぶ》れる訳になる。
 イブセンを能く引合いに出すようであるが、イブセンのものを読むと、彼れは一種の哲学に依って其作品を作り上げて居るけれ共、然し、其作品を読んで、作家が一種の哲学に捉《とら》えられて書いた作品であるとは思われない。描き出されて居る人間が動いて居て、シチュエーションが自然に、殊更筆を曲げたような痕跡《こんせき》なく、あそこまで煎《せん》じ詰められて来て居るのであるから、吾々《われわれ》はイブセンを読んで、彼れは一種の哲学を発表する為めに、殊更な非芸術な作品を作ったとは思わない。イブセンの作に曲ぐ可《べか》らざる生命のあるものは其故《そのせい》だろうと思う。所が、バーナード・ショウになると、私は余り多くは読んで居ないが、兎《と》に角《かく》自分の読んだだけの範囲で云うと、茲《ここ》に一種の哲学なら哲学があって、それを現わす為めに、殊更な劇を組み立てたように思われる。即ち、其哲学に何処《どこ》までも囚《とら》われて居る。哲学に圧迫された劇である。だから其処《そこ》にイブセンとショウとの間に、大なる差違があるように思う。即ち同じく哲学を持ち乍《なが》ら、其哲学の為めに作り上げる作品が累《わずら》いされて、直ちにそれが読者の目に見え透《す》くか、或は自然に作り上げられた作品の中へ、其哲学が畳み込まれるかの別れる処は、ほんの僅《わず》かな一線で、其処《そこ》が呼吸ものだと思う。私の『虞美人草』などは問題にもなるまいが、兎《と》に角《かく》、其|極《ご》く幽《かす》かな一線の別れ方に依って、作品として失敗する人と、成功する人とに別れるのである。
 教訓的意味を芸術的作品に依って、得る必要はないと云うが、それは、教訓の為めに作品の価値を曲げては可《い》けないので、自然な作品の中から、自《おのずか》[#底本のルビは「おのず」]ら教訓が浮いて来るなら一向|差支《さしつか》えないと思われる。で、総《すべ》ての文芸上の作品は、或る意味に於いて、必ず一種の教訓を持ち来すものである、と私
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