直《すぐ》にあの作に依って世間全体のああした性格の女性を説明し尽したと思われては困る。両方ともああ云う性格の女はああなると定《きま》っては居ない。唯《ただ》、パティキュラー・ケースがああなると云う丈《だ》けで、全体がああ云う運命になると云うことは含んで居ない。
で、ああした二個の女性を描き、あの事件を発展させ、そしてああした終りになったのは、何か教訓的意味を含んで居るのではないかとのお尋ねであるが、一体教訓と言えば、所謂《いわゆる》昔流の小説に於て、道徳上の制裁を、読者も、作者も予期して居た時代に、人の云々した世の中の教訓に合わして拵《こし》らえたのかとお聞きになるのならば、然《そ》うじゃないとお答えする。それは作家として茲《ここ》に一種の教訓的の考えを頭に置いて、其考えに都合の好いように人物を造り、事件を発展させて作物を捏《こ》ね上げたと云うことは、自分で作家の資格を削《けず》り取ると同じことではあるまいか。けれ共、一種の作品が出来て、其作品が、作品として出来上る――即《すなわ》ち作品として外のモーチブに支配を受けないと云う意味、更に言葉を換えて詳《くわ》しく云うならば、自分が利害関係の為めに作品を拵《こし》らえ上げたとか、或は私憤を洩《も》らす為めに書き上げたとか、総《す》べて目的の他にある所の作品は、私は作品として出来上ったとは言わない。作品として出来上ったと云う意味は、何物の支配命令も拘束も受けずに、作品其物を作り上げるを目的として作られた作品のことである。で、作品として出来上った所の其作品が、何かの教訓を読者に与えるなれば、敢《あえ》て作家の辞する所でない。一向|差支《さしつか》えないのである。だから読者が『虞美人草』を読んで、此の作は斯《こ》う云う教訓を書くために、それに合せるように殊更《ことさら》に作家が筆を曲げて書いたのだと云うことを感じるなれば、私は其作に殊更故意に書き上げた作為の痕跡《こんせき》が見える丈《だ》け、それ丈け多くの作品としては失敗したものであると言わねばならぬ。
けれ共、作品としては自然と出来上ったもので、故《わざ》とらしく教訓を狙《ねら》って書いたものではないが、自然と出来上った其作品の中に於《おい》て、余は如上の教訓を認め得たと云うなれば、私は作家として満足である。其作物に於て是非共現わさなければならぬと云う作家の一種の哲学
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