しょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒|臭《くさ》いから、さっさと学校へ帰って来た。
 それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽《あ》きたから、寝られないまでも床《とこ》へはいろうと思って、寝巻に着換《きが》えて、蚊帳《かや》を捲《ま》くって、赤い毛布《けっと》を跳《は》ねのけて、とんと尻持《しりもち》を突《つ》いて、仰向《あおむ》けになった。おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖《くせ》だ。わるい癖だと云って小川町《おがわまち》の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込《こ》んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚《ぐ》な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の建築が粗末《そまつ》なんだ。掛《か》ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹《へこ》ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒《たお》れても構わない。なるべく勢《いきおい》よく倒れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして蚤《のみ》のようでもないからこいつあと驚《おど》ろいて、足を二三度|毛布《けっと》の中で振《ふ》ってみた。するとざらざらと当ったものが、急に殖《ふ》え出して脛《すね》が五六カ所、股《もも》が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏《ふ》み潰《つぶ》したのが一つ、臍《へそ》の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。早速《さっそく》起き上《あが》って、毛布《けっと》をぱっと後ろへ抛《ほう》ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。正体の知れない時は多少気味が悪《わ》るかったが、バッタと相場が極《き》まってみたら急に腹が立った。バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり括《くく》り枕《まくら》を取って、二三度|擲《たた》きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛《な》げつける割に利目《ききめ》がない。仕方がないから、また布団の上へ坐《すわ》って、煤掃《すすはき》の時に蓙《ござ》を丸めて畳《たたみ》を叩《たた》くように、そこら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩《かた》だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。顔へ付いた奴《やつ》は枕で叩く訳に行かないから、手で攫《つか》んで、一生懸命に擲きつける。忌々《いまいま》しい事に、「くら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。死にもどうもしない。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治《たいじ》た。箒《ほうき》を持って来てバッタの死骸《しがい》を掃き出した。小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼《か》っとく奴がどこの国にある。間抜《まぬけ》め。と叱《しか》ったら、私は存じませんと弁解をした。存じませんで済むかと箒を椽側《えんがわ》へ抛《ほう》り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のまま腕《うで》まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先《まっさき》の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎《あいにく》掃き出してしまって一|匹《ぴき》も居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜《はきだめ》へ棄《す》ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで馳《か》け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載《の》せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿《ばか》だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣《や》り込《こ》めた。「篦棒《べらぼう》め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕《つら》まえてなもし[#「なもし」に傍点]た何だ。菜飯《なめし》は田楽《でんがく》の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもし[#「なもし」に傍点]を使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼《たの》んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温《ぬく》い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
 けちな奴等《やつら》だ。自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。証拠《しょうこ》さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯《ひきょう》な事はただの一度もなかった。したものはしたので、しないものはしないに極《きま》ってる。おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘を吐《つ》いて罰《ばつ》を逃《に》げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰はご免蒙《めんこうむ》るなんて下劣《げれつ》な根性がどこの国に流行《はや》ると思ってるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違《そうい》ない。全体中学校へ何しにはいってるんだ。学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化《ごまか》して、陰《かげ》でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違《かんちが》いをしていやがる。話せない雑兵《ぞうひょう》だ。
 おれはこんな腐《くさ》った了見《りょうけん》の奴等と談判するのは胸糞《むなくそ》が悪《わ》るいから、「そんなに云われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ」と云って六人を逐《お》っ放《ぱな》してやった。おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも遥《はる》かに上品なつもりだ。六人は悠々《ゆうゆう》と引き揚《あ》げた。上部《うわべ》だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪るい。おれには到底《とうてい》これほどの度胸はない。
 それからまた床へはいって横になったら、さっきの騒動《そうどう》で蚊帳の中はぶんぶん唸《うな》っている。手燭《てしょく》をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、釣手《つりて》をはずして、長く畳《たた》んでおいて部屋の中で横竪《よこたて》十文字に振《ふる》ったら、環《かん》が飛んで手の甲《こう》をいやというほど撲《ぶ》った。三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。時計を見ると十時半だ。考えてみると厄介な所へ来たもんだ。一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。よっぽど辛防《しんぼう》強い朴念仁《ぼくねんじん》がなるんだろう。おれには到底やり切れない。それを思うと清《きよ》なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆《ばあ》さんだが、人間としてはすこぶる尊《たっ》とい。今まではあんなに世話になって別段|難有《ありがた》いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。越後《えちご》の笹飴《ささあめ》が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は充分《じゅうぶん》ある。清はおれの事を欲がなくって、真直《まっすぐ》な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。
 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然《とつぜん》おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子《ひょうし》を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨《とき》の声が起《おこ》った。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端《とたん》に、ははあさっきの意趣返《いしゅがえ》しに生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚《おぼえ》があるだろう。本来なら寝てから後悔《こうかい》してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛《せいしゅく》に寝ているべきだ。それを何だこの騒《さわ》ぎは。寄宿舎を建てて豚《ぶた》でも飼っておきあしまいし。気狂《きちが》いじみた真似《まね》も大抵《たいてい》にするがいい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段《はしごだん》を三股半《みまたはん》に二階まで躍《おど》り上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分《わか》らないが、人気《ひとけ》のあるとないとは様子でも知れる。長く東から西へ貫《つらぬ》いた廊下《ろうか》には鼠《ねずみ》一|匹《ぴき》も隠《かく》れていない。廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢《ゆめ》を見る癖があって、夢中《むちゅう》に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢《いきおい》で尋《たず》ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中《じゅう》の笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中《まんなか》で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響《ひび》いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板《ゆかいた》を踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とアっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳《か》けだした。おれの通る路《みち》は暗い、ただはずれに見える月あかりが目標《めじるし》だ。おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、堅《かた》い大きなものに向脛《むこうずね》をぶつけて、あ痛い[#「あ痛い」に傍点]が頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛《ほう》り出された。こん畜生《ちきしょう》と起き上がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森《しん》としている。いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極《き》めて寝室《しんしつ》の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かな
前へ 次へ
全21ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング