い。錠《じょう》をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸《か》けてあるのか、押《お》しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の室《へや》を試みた。開かない事はやっぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕《つ》らまえてやろうと、焦慮《いらっ》てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この野郎《やろう》申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧《ちえ》が足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸《えど》っ子は意気地《いくじ》がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂《はなった》れ小僧《こぞう》にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本《はたもと》だ。旗本の元は清和源氏《せいわげんじ》で、多田《ただ》の満仲《まんじゅう》の後裔《こうえい》だ。こんな土百姓《どびゃくしょう》とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。さっき、ぶつけた向脛を撫《な》でてみると、何だかぬらぬらする。血が出るんだろう。血なんか出たければ勝手に出るがいい。そのうち最前からの疲《つか》れが出て、ついうとうと寝てしまった。何だか騒がしいので、眼《め》が覚めた時はえっ糞《くそ》しまったと飛び上がった。おれの坐《すわ》ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引《ひ》っ攫《つか》んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向《あおむけ》に倒れた。ざまを見ろ。残る一人がちょっと狼狽《ろうばい》したところを、飛びかかって、肩を抑《おさ》えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾《つ》いて来た。夜《よ》はとうにあけている。
おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問《きつもん》し始めると、豚は、打《ぶ》っても擲いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。見るとみんな眠《ねむ》そうに瞼《まぶた》をはらしている。けちな奴等だ。一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。面でも洗って議論に来いと云ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答《おしもんどう》をしていると、ひょっくり狸がやって来た。あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草《いいぐさ》もちょっと聞いた。追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみんな放免《ほうめん》した。手温《てぬ》るい事だ。おれなら即席《そくせき》に寄宿生をことごとく退校してしまう。こんな悠長《ゆうちょう》な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上おれに向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及《およ》ばんと云うから、おれはこう答えた。「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴《ちょうだい》した月給を学校の方へ割戻《わりもど》します」校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面|痒《かゆ》い。蚊がよっぽと刺《さ》したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻《か》きながら、顔はいくら膨《は》れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支《つか》えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと賞《ほ》めた。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。
五
君|釣《つ》りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪《わ》るいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分《わか》りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅《こうめ》の釣堀《つりぼり》で鮒《ふな》を三|匹《びき》釣った事がある。それから神楽坂《かぐらざか》の毘沙門《びしゃもん》の縁日《えんにち》で八寸ばかりの鯉《こい》を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜《お》しいと云《い》ったら、赤シャツは顋《あご》を前の方へ突《つ》き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や猟《りょう》をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生《せっしょう》をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極《き》まってる。釣や猟をしなくっちゃ活計《かっけい》がたたないなら格別だが、何不足なく暮《くら》している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢《ぜいたく》な話だ。こう思ったが向《むこ》うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶《かな》わないと思って、だまってた。すると先生このおれを降参させたと疳違《かんちが》いして、早速伝授しましょう。おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。吉川《よしかわ》君と二人《ふたり》ぎりじゃ、淋《さむ》しいから、来たまえとしきりに勧める。吉川君というのは画学の教師で例の野だいこの事だ。この野だは、どういう了見《りょうけん》だか、赤シャツのうちへ朝夕|出入《でいり》して、どこへでも随行《ずいこう》して行《ゆ》く。まるで同輩《どうはい》じゃない。主従《しゅうじゅう》みたようだ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極《きま》っているんだから、今さら驚《おど》ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想《ぶあいそ》のおれへ口を掛《か》けたんだろう。大方|高慢《こうまん》ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘《さそ》ったに違いない。そんな事で見せびらかされるおれじゃない。鮪《まぐろ》の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。おれだって人間だ、いくら下手《へた》だって糸さえ卸《おろ》しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行ゥないんだ、嫌《きら》いだから行かないんじゃないと邪推《じゃすい》するに相違《そうい》ない。おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度《したく》を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜《はま》へ行った。船頭は一人《ひとり》で、船《ふね》は細長い東京辺では見た事もない恰好《かっこう》である。さっきから船中|見渡《みわた》すが釣竿《つりざお》が一本も見えない。釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖釣《おきづり》には竿は用いません、糸だけでげすと顋を撫《な》でて黒人《くろうと》じみた事を云った。こう遣《や》り込《こ》められるくらいならだまっていればよかった。
船頭はゆっくりゆっくり漕《こ》いでいるが熟練は恐《おそろ》しいもので、見返《みか》えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺《こうはくじ》の五重の塔《とう》が森の上へ抜《ぬ》け出して針のように尖《とん》がってる。向側《むこうがわ》を見ると青嶋《あおしま》が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松《まつ》ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望《ちょうぼう》していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹《ふ》かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直《まっすぐ》で、上が傘《かさ》のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙《だま》っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻《まわ》った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平《たいら》だ。赤シャツのお陰《かげ》ではなはだ愉快《ゆかい》だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議《ほつぎ》をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々《われわれ》はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑《めいわく》だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫《だいじょうぶ》ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだろうが、小旦那《こだんな》だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草セ。これで当人は私《わたし》も江戸《えど》っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染《なじみ》の芸者の渾名《あだな》か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺《なが》めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨《いかり》を卸した。幾尋《いくひろ》あるかねと赤シャツが聞くと、六尋《むひろ》ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛《たい》はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆《ごうたん》なものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰《く》り出して投げ入れる。何だか先に錘《おもり》のような鉛《なまり》がぶら下がってるだけだ。浮《うき》がない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。おれには到底《とうてい》出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞
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