て帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。この男は馬鹿《ばか》に相違《そうい》ない。学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責《こっとうぜめ》に逢《あ》ってはとても長く続きそうにない。
 そのうち学校もいやになった。  ある日の晩|大町《おおまち》と云う所を散歩していたら郵便局の隣《とな》りに蕎麦《そば》とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。東京に居《お》った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香《にお》いをかぐと、どうしても暖簾《のれん》がくぐりたくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。見ると看板ほどでもない。東京と断《こと》わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法《めっぽう》きたない。畳《たたみ》は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。壁《かべ》は煤《すす》で真黒《まっくろ》だ。天井《てんじょう》はランプの油烟《ゆえん》で燻《くす》ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。何でも古いうちを買って二三日《にさんち》前から開業したに違《ちが》いなかろう。ねだん付の第一号に天麩羅《てんぷら》とある。おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。するとこの時まで隅《すみ》の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中《れんじゅう》が、ひとしくおれの方を見た。部屋《へや》が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で挨拶《あいさつ》をしたから、おれも挨拶をした。その晩は久《ひさ》し振《ぶり》に蕎麦を食ったので、旨《うま》かったから天麩羅を四杯|平《たいら》げた。
 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑《おか》しいかと聞いた。すると生徒の一人《ひとり》が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但《ただ》し笑うべからず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪《しゃく》に障《さわ》った。冗談《じょうだん》も度を過ごせばいたずらだ。焼餅《やきもち》の黒焦《くろこげ》のようなもので誰《だれ》も賞《ほ》め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押《お》して行っても構わないと云う了見《りょうけん》だろう。一時間あるくと見物する町もないような狭《せま》い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露《にちろ》戦争のように触《ふ》れちらかすんだろう。憐《あわ》れな奴等《やつら》だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢《うえきばち》の楓《かえで》みたような小人《しょうじん》が出来るんだ。無邪気《むじゃき》ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃなんだ。小供の癖《くせ》に乙《おつ》に毒気を持ってる。おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯《ひきょう》な冗談だ。君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒《おこ》るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。やな奴だ。わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始めてしまった。それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。どうも始末に終えない。あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。生徒は休みになって喜んだそうだ。こうなると学校より骨董の方がまだましだ。
 天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに肝癪《かんしゃく》に障らなくなった。学校へ出てみると、生徒も出ている。何だか訳が分らない。それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田《すみた》と云う所へ行って団子《だんご》を食った。この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓《ゆうかく》がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰《だれ》も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二|皿《さら》七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭|払《はら》った。どうも厄介《やっかい》な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭《あかてぬぐい》と云うのが評判になった。何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極《き》めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及《およ》ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛《でかけ》る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染《そま》った上へ、赤い縞《しま》が流れ出したのでちょっと見ると紅色《べにいろ》に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣《ゆかた》をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目《てんもく》へ茶を載《の》せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢《ぜいたく》だと云い出した。余計なお世話だ。まだある。湯壺《ゆつぼ》は花崗石《みかげいし》を畳《たた》み上げて、十五|畳敷《じょうじき》ぐらいの広さに仕切ってある。大抵《たいてい》は十三四人|漬《つか》ってるがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快《ゆかい》だ。おれは人の居ないのを見済《みすま》しては十五?フ湯壺を泳ぎ巡《まわ》って喜んでいた。ところがある日三階から威勢《いせい》よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗《のぞ》いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼《は》りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札《はりふだ》はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚《おど》ろいた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵《たんてい》しているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。

     四

 学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。但《ただ》し狸《たぬき》と赤シャツは例外である。何でこの両人が当然の義務を免《まぬ》かれるのかと聞いてみたら、奏任待遇《そうにんたいぐう》だからと云う。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃《の》がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、それが当《あた》り前《まえ》だというような顔をしている。よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。これについては大分不平であるが、山嵐《やまあらし》の説によると、いくら一人《ひとり》で不平を並《なら》べたって通るものじゃないそうだ。一人だって二人《ふたり》だって正しい事なら通りそうなものだ。山嵐は might is right という英語を引いて説諭《せつゆ》を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。強者の権利ぐらいなら昔《むかし》から知っている。今さら山嵐から講釈をきかなくってもいい。強者の権利と宿直とは別問題だ。狸や赤シャツが強者だなんて、誰《だれ》が承知するものか。議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に廻《まわ》って来た。一体|疳性《かんしょう》だから夜具蒲団《やぐふとん》などは自分のものへ楽に寝ないと寝たような心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ泊《とま》った事はほとんどないくらいだ。友達のうちでさえ厭《いや》なら学校の宿直はなおさら厭だ。厭だけれども、これが四十円のうちへ籠《こも》っているなら仕方がない。我慢《がまん》して勤めてやろう。
 教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは随分《ずいぶん》間が抜《ぬ》けたものだ。宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。ちょっとはいってみたが、西日をまともに受けて、苦しくって居たたまれない。田舎《いなか》だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。生徒の賄《まかない》を取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには恐《おそ》れ入《い》った。よくあんなものを食って、あれだけに暴れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから豪傑《ごうけつ》に違《ちが》いない。飯は食ったが、まだ日が暮《く》れないから寝《ね》る訳に行かない。ちょっと温泉に行きたくなった。宿直をして、外へ出るのはいい事だか、悪《わ》るい事だかしらないが、こうつくねんとして重禁錮《じゅうきんこ》同様な憂目《うきめ》に逢《あ》うのは我慢の出来るもんじゃない。始めて学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょっと用達《ようたし》に出たと小使《こづかい》が答えたのを妙《みょう》だと思ったが、自分に番が廻《まわ》ってみると思い当る。出る方が正しいのだ。おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと出掛《でか》けた。赤手拭《あかてぬぐい》は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。
 それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方《ひぐれがた》になったから、汽車へ乗って古町《こまち》の停車場《ていしゃば》まで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。すたすた急ぎ足にやってきたが、擦《す》れ違《ちが》った時おれの顔を見たから、ちょっと挨拶《あいさつ》をした。すると狸はあなたは今日は宿直ではなかったですかねえ[#「なかったですかねえ」に傍点]と真面目《まじめ》くさって聞いた。なかったですかねえもないもんだ。二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。ご苦労さま。と礼を云ったじゃないか。校長なんかになるといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。おれは腹が立ったから、ええ宿直です。宿直ですから、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて済ましてあるき出した。竪町《たてまち》の四つ角までくると今度は山嵐《やまあらし》に出っ喰《く》わした。どうも狭《せま》い所だ。出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、「宿直が無暗《むやみ》に出てあるくなんて、不都合《ふつごう》じゃないか」と云った。「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張《いば》ってみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒《めんどう》だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨で
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