と呑気《のんき》な声を出して、妙な謡《うた》をうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩《たた》く。歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。三河万歳《みかわまんざい》と普陀洛《ふだらく》やの合併《がっぺい》したものと思えば大した間違いにはならない。
歌はすこぶる悠長《ゆうちょう》なもので、夏分の水飴《みずあめ》のように、だらしがないが、句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのようでも拍子《ひょうし》は取れる。この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる迅速《じんそく》なお手際で、拝見していても冷々《ひやひや》する。隣《とな》りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じように振《ふ》り舞《ま》わすのだから、よほど調子が揃《そろ》わなければ、同志撃《どうしうち》を始めて怪我《けが》をする事になる。それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険《あぶなく》もないが、三十人が一度に足踏《あしぶ》みをして横を向く時がある。ぐるりと廻る事がある。膝を曲げる事がある。隣りのものが一秒でも早過ぎるか、遅《おそ》過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣りの頭はそがれるかも知れない。抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲《はんい》は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた、なかなかもって汐酌《しおくみ》や関《せき》の戸《と》の及《およ》ぶところでない。聞いてみると、これははなはだ熟練の入るもので容易な事では、こういう風に調子が合わないそうだ。ことにむずかしいのは、かの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。三十人の足の運びも、手の働きも、腰《こし》の曲げ方も、ことごとくこのぼこぼん君の拍子一つで極まるのだそうだ。傍《はた》で見ていると、この大将が一番呑気そうに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実ははなはだ責任が重くって非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
おれと山嵐が感心のあまりこの踴を余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急にわっと云う鬨の声がして、今まで穏《おだ》やかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打って、右左りに揺《うご》き始める。喧嘩だ喧嘩だと云う声がすると思うと、人の袖《そで》を潜《くぐ》り抜《ぬ》けて来た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、今朝《けさ》の意趣返《いしゅがえ》しをするんで、また師範《しはん》の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと云いながらまた人の波のなかへ潜《もぐ》り込《こ》んでどっかへ行ってしまった。
山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人を避《よ》けながら一散に馳《か》け出した。見ている訳にも行かないから取り鎮《しず》めるつもりだろう。おれは無論の事逃げる気はない。山嵐の踵《かかと》を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。喧嘩は今が真最中《まっさいちゅう》である。師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。師範は制服をつけているが、中学は式後|大抵《たいてい》は日本服に着換《きが》えているから、敵味方はすぐわかる。しかし入り乱れて組んづ、解《ほご》れつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分らない。山嵐は困ったなと云う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。巡査《じゅんさ》がくると面倒だ。飛び込んで分けようと、おれの方を見て云うから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈《はげ》しそうな所へ躍《おど》り込《こ》んだ。止《よ》せ止せ。そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。よさないかと、出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所を突《つ》き貫《ぬ》けようとしたが、なかなかそう旨《うま》くは行かない。一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。目の前に比較的《ひかくてき》大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。止せと云ったら、止さないかと師範生の肩《かた》を持って、無理に引き分けようとする途端《とたん》にだれか知らないが、下からおれの足をすくった。おれは不意を打たれて握《にぎ》った、肩を放して、横に倒《たお》れた。堅《かた》い靴《くつ》でおれの背中の上へ乗った奴がある。両手と膝を突いて下から、跳《は》ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。起き上がって見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身体が生徒の間に挟《はさ》まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。おい到底駄目だと云ってみたが聞えないのか返事もしない。
ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨《ほおぼね》へ中《あた》ったなと思ったら、後ろからも、背中を棒《ぼう》でどやした奴がある。教師の癖《くせ》に出ている、打《ぶ》て打てと云う声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛《な》げろ。と云う声もする。おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍《そば》に居た師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度はおれの五|分刈《ぶがり》の頭を掠《かす》めて後ろの方へ飛んで行った。山嵐はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐《おそ》れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思うんだ。身長《なり》は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。今まで葛練《くずね》りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。田舎者でも退却《たいきゃく》は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらいである。
山嵐はどうしたかと見ると、紋付《もんつき》の一重羽織《ひとえばおり》をずたずたにして、向うの方で鼻を拭《ふ》いている。鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。鼻がふくれ上がって真赤《まっか》になってすこぶる見苦しい。おれは飛白《かすり》の袷《あわせ》を着ていたから泥《どろ》だらけになったけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。しかし頬《ほっ》ぺたがぴりぴりしてたまらない。山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。
巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、捕《つら》まったのは、おれと山嵐だけである。おれらは姓名《せいめい》を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで来いと云うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末《てんまつ》を述べて下宿へ帰った。
十一
あくる日|眼《め》が覚めてみると、身体中《からだじゅう》痛くてたまらない。久しく喧嘩《けんか》をしつけなかったから、こんなに答えるんだろう。これじゃあんまり自慢《じまん》もできないと床《とこ》の中で考えていると、婆《ばあ》さんが四国新聞を持ってきて枕元《まくらもと》へ置いてくれた。実は新聞を見るのも退儀《たいぎ》なんだが、男がこれしきの事に閉口《へこ》たれて仕様があるものかと無理に腹這《はらば》いになって、寝《ね》ながら、二頁を開けてみると驚《おど》ろいた。昨日の喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚ろかないのだが、中学の教師|堀田某《ほったぼう》と、近頃《ちかごろ》東京から赴任《ふにん》した生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾《しそう》してこの騒動《そうどう》を喚起《かんき》せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生に向《むか》って暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が附記《ふき》してある。本県の中学は昔時《せきじ》より善良温順の気風をもって全国の羨望《せんぼう》するところなりしが、軽薄《けいはく》なる二|豎子《じゅし》のために吾校《わがこう》の特権を毀損《きそん》せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人《ごじん》は奮然《ふんぜん》として起《た》ってその責任を問わざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢《ぶらいかん》の上に加えて、彼等《かれら》をして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、お灸《きゅう》を据《す》えたつもりでいる。おれは床の中で、糞《くそ》でも喰《く》らえと云《い》いながら、むっくり飛び起きた。不思議な事に今まで身体の関節《ふしぶし》が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
おれは新聞を丸めて庭へ抛《な》げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架《こうか》へ持って行って棄《す》てて来た。新聞なんて無暗《むやみ》な嘘《うそ》を吐《つ》くもんだ。世の中に何が一番|法螺《ほら》を吹《ふ》くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれの云ってしかるべき事をみんな向《むこ》うで並《なら》べていやがる。それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。天下に某と云う名前の人があるか。考えてみろ。これでもれっきとした姓《せい》もあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、多田満仲《ただのまんじゅう》以来の先祖を一人《ひとり》残らず拝ましてやらあ。――顔を洗ったら、頬《ほっ》ぺたが急に痛くなった。婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。読んで後架へ棄てて来た。欲しけりゃ拾って来いと云ったら、驚《おどろ》いて引き下がった。鏡で顔を見ると昨日《きのう》と同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
今日の新聞に辟易《へきえき》して学校を休んだなどと云われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。出てくる奴《やつ》も、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。何がおかしいんだ。貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまいし。そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄《てがら》で、――名誉《めいよ》のご負傷でげすか、と送別会の時に撲《なぐ》った返報と心得たのか、いやに冷《ひや》かしたから、余計な事を言わずに絵筆でも舐《な》めていろと云ってやった。するとこりゃ恐入《おそれい》りやした。しかしさぞお痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。貴様の世話になるもんかと怒鳴《どな》りつけてやったら、向《むこ》う側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣《とな》りの歴史の教師と何か内所話をして笑っている。
それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻に至っては、紫色《むらさきいろ》に膨張《ぼうちょう》して、掘《ほ》ったら中から膿《うみ》が出そうに見える。自惚《うぬぼれ》のせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどく遣《や》られている。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つ塊《かた》まっている。ほかの奴は退屈《たいくつ》にさえなるときっとこっちばかり見る。飛んだ事でと口で云うが、心のうちではこの馬鹿《ばか》がと思ってるに相違《そうい》ない。それでなければああいう風に私語合《ささやきあ》ってはくすくす笑う訳がない。教場へ出ると生徒は拍手をもって迎《むか》えた。先生|万歳《ばんざい》と云うものが二三人あった。景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。おれと山嵐がこんなに注意の焼点《しょうてん》となってるなかに、赤シャツばかりは平常の通り傍《そば》へ来て、どうも飛んだ災難でした。僕は君等に対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込《こ》む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君を誘《さそ》いに行ったから、こんな事が起《おこ》ったので、僕は実に申し訳がない。それでこの件についてはあくまで尽力《じん
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