りょく》するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を新聞がかき出しましたね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。おれには心配なんかない、先で免職《めんしょく》をするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消《とりけし》の手続きはしたと云うから、やめた。
おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計《みはから》って、嘘のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨《うら》みを抱《いだ》いて、あんな記事をことさらに掲《かか》げたんだろうと論断した。赤シャツはおれ等の行為《こうい》を弁解しながら控所《ひかえじょ》を一人ごとに廻《まわ》ってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく吹聴《ふいちょう》していた。みんなは全く新聞屋がわるい、怪《け》しからん、両君は実に災難だと云った。
帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭《くさ》いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、捲《ま》き込《こ》んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴《そぼう》なようだが、おれより智慧《ちえ》のある男だと感心した。
「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物《かんぶつ》だ」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事をそう容易《たやす》く聴《き》くかね」
「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」
「友達が居るのかい」
「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
「わるくすると、遣《や》られるかも知れない」
「そんなら、おれは明日《あした》辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼《たの》んだって居るのはいやだ」
「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠《しょうこ》の挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、反駁《はんばく》するのはむずかしいね」
「厄介《やっかい》だな。それじゃ濡衣《ぬれぎぬ》を着るんだね。面白《おもしろ》くもない。天道是耶非《てんどうぜかひ》かだ」
「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉《ゆ》の町で取って抑《おさ》えるより仕方がないだろう」
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ」
「それもよかろう。おれは策略は下手《へた》なんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
俺と山嵐はこれで分《わか》れた。赤シャツが果《はた》たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。到底《とうてい》智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力《わんりょく》でなくっちゃ駄目《だめ》だ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの詰《つま》りは腕力だ。
あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、披《ひら》いてみると、正誤どころか取り消しも見えない。学校へ行って狸《たぬき》に催促《さいそく》すると、あしたぐらい出すでしょうと云う。明日になって六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと云う答だ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。虚偽《きょぎ》の記事を掲げた田舎新聞一つ詫《あや》まらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭《せつゆ》を加えた。新聞がそんな者なら、一日も早く打《ぶ》っ潰《つぶ》してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、泥鼈《すっぽん》に食いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日《こんにち》ただ今狸の説明によって始めて承知|仕《つかまつ》った。
それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然《ふんぜん》とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと云うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座《そくざ》に一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首を傾《かたむ》けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと云われたかと尋《たず》ねるから、いや云われない。君は? と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決《しょけつ》してくれと云われたとの事だ。
「そんな裁判はないぜ。狸は大方|腹鼓《はらつづみ》を叩《たた》き過ぎて、胃の位置が顛倒《てんどう》したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踴《おど》りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎《いなか》の学校はそう理窟《りくつ》が分らないんだろう。焦慮《じれった》いな」
「それが赤シャツの指金《さしがね》だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸《ゆきがか》り上|到底《とうてい》両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化《ごまか》されると考えてるのさ」
「なお悪いや。誰《だれ》が両立してやるものか」
「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着《とうちゃく》しないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさし支《つか》えるからな」
「それじゃおれを間《あい》のくさびに一席|伺《うかが》わせる気なんだな。こん畜生《ちくしょう》、だれがその手に乗るものか」
翌日《あくるひ》おれは学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。
「何で私に辞表を出せと云わないんですか」
「へえ?」と狸はあっけに取られている。
「堀田には出せ、私には出さないで好《い》いと云う法がありますか」
「それは学校の方の都合《つごう》で……」
「その都合が間違《まちが》ってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
「その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
なるほど狸だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き払《はら》ってる。おれは仕様がないから
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑《あんかん》として、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから……」
「出来なくなっても私の知った事じゃありません」
「君そう我儘《わがまま》を云うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと、君の将来の履歴《りれき》に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
「履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだが、わたしの云う方も少しは察して下さい。君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」
考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が蒼《あお》くなったり、赤くなったりして、可愛想《かわいそう》になったからひとまず考え直す事として引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせ遣っつけるなら塊《かた》めて、うんと遣っつける方がいい。
山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支《さしつか》えあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧《りこう》らしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。
山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶《あいさつ》をして浜《はま》の港屋まで下《さが》ったが、人に知れないように引き返して、温泉《ゆ》の町の枡屋《ますや》の表二階へ潜《ひそ》んで、障子《しょうじ》へ穴をあけて覗《のぞ》き出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツが忍《しの》んで来ればどうせ夜だ。しかも宵《よい》の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極《きま》ってる。最初の二晩はおれも十一時|頃《ごろ》まで張番《はりばん》をしたが、赤シャツの影《かげ》も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目を踏《ふ》んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。四五日《しごんち》すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥《おく》さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って誅戮《ちゅうりく》を加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しも験《げん》が見えないと、いやになるもんだ。おれは性急《せっかち》な性分だから、熱心になると徹夜《てつや》でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅党でも飽《あ》きる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固《がんこ》なものだ。宵《よい》から十二時|過《すぎ》までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈《がすとう》の下を睨《にら》めっきりである。おれが行くと今日は何人客があって、泊《とま》りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々|腕組《うでぐみ》をして溜息《ためいき》をつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯《しょうがい》天誅を加える事は出来ないのである。
八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵《けいらん》を八つ買った。これは下宿の婆さんの芋責《いもぜめ》に応ずる策である。その玉子を四つずつ左右の袂《たもと》へ入れて、例の赤手拭《あかてぬぐい》を肩《かた》へ乗せて、懐手《ふところで》をしながら、枡屋《ますや》の楷子段《はしごだん》を登って山嵐の座敷《ざしき》の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天《いだてん》のような顔は急に活気を呈《てい》した。昨夜《ゆうべ》までは少し塞《ふさ》ぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭《いんきくさ》いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快《ゆかい》愉快と云った。
「今夜七時半頃あの小鈴《こすず》と云う芸者が角屋へはいった」
「赤シャツといっしょか」
「いいや」
「それじゃ駄目だ」
「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてって、ああ云う狡《ずる》い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「そうかも知れない
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