て帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。この男は馬鹿《ばか》に相違《そうい》ない。学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責《こっとうぜめ》に逢《あ》ってはとても長く続きそうにない。
 そのうち学校もいやになった。  ある日の晩|大町《おおまち》と云う所を散歩していたら郵便局の隣《とな》りに蕎麦《そば》とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。東京に居《お》った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香《にお》いをかぐと、どうしても暖簾《のれん》がくぐりたくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。見ると看板ほどでもない。東京と断《こと》わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法《めっぽう》きたない。畳《たたみ》は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。壁《かべ》は煤《すす》で真黒《まっくろ》だ。天井《てんじょう》はランプの油烟《ゆえん》で燻《くす》ぼってるのみか、低くって、思わ
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