のはないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。おれは墨《すみ》を磨《す》って、筆をしめして、巻紙を睨《にら》めて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨って――同じ所作を同じように何返も繰《く》り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、諦《あきら》めて硯《すずり》の蓋《ふた》をしてしまった。手紙なんぞをかくのは面倒臭い。やっぱり東京まで出掛けて行って、逢《あ》って話をするのが簡便だ。清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の断食《だんじき》よりも苦しい。
 おれは筆と巻紙を抛《ほう》り出して、ごろりと転がって肱枕《ひじまくら》をして庭《にわ》の方を眺《なが》めてみたが、やっぱり清の事が気にかかる。その時おれはこう思った。こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心《まこと》は清に通じるに違いない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮《くら》してると思ってるだろう。たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。
 庭は十坪《とつぼ》ほどの平庭で
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