、これという植木もない。ただ一本の蜜柑《みかん》があって、塀《へい》のそとから、目標《めじるし》になるほど高い。おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑の生《な》っているところはすこぶる珍《めずら》しいものだ。あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて奇麗《きれい》だろう。今でももう半分色の変ったのがある。婆《ばあ》さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、旨《うま》い蜜柑だそうだ。今に熟《うれ》たら、たんと召《め》し上がれと云ったから、毎日少しずつ食ってやろう。もう三週間もしたら、充分《じゅうぶん》食えるだろう。まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
おれが蜜柑の事を考えているところへ、偶然山嵐《ぐうぜんやまあらし》が話しにやって来た。今日は祝勝会だから、君といっしょにご馳走《ちそう》を食おうと思って牛肉を買って来たと、竹の皮の包《つつみ》を袂《たもと》から引きずり出して、座敷《ざしき》の真中《まんなか》へ抛り出した。おれは下宿で芋責《いもぜめ》豆腐責になってる上、蕎麦《そば》屋行き、団子《だんご》屋行きを禁じられてる際だから
前へ
次へ
全210ページ中174ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング