、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡《わた》って野芹川《のぜりがわ》の堤《どて》へ出た。川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村《あいおいむら》へ出る。村には観音様《かんのんさま》がある。
温泉《ゆ》の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓《たいこ》が鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影《ひとかげ》が見え出した。月に透《す》かしてみると影は二つある。温泉《ゆ》へ来て村へ帰る若い衆《しゅ》かも知れない。それにしては唄《うた》もうたわない。存外静かだ。
だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離《きょり》に逼った時、男がたちまち振り向いた。月は後《うしろ》からさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った
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