れるような事を云った覚えはない。今日《こんにち》ただ今に至るまでこれでいいと堅《かた》く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励《しょうれい》しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋《じゅんすい》な人を見ると、坊《ぼ》っちゃんだの小僧《こぞう》だのと難癖《なんくせ》をつけて軽蔑《けいべつ》する。それじゃ小学校や中学校で嘘《うそ》をつくな、正直にしろと倫理《りんり》の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論|悪《わ》るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落《らいらく》なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄《もや》でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。なあるほどこりゃ奇絶《きぜつ》ですね。時間があると写生するんだが、惜《お》しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛《ふえ》がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯《いそ》の砂へざぐりと、舳《へさき》をつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶《あいさつ》する。おれは船端《ふなばた》から、やっと掛声《かけごえ》をして磯へ飛び下りた。
六
野だは大嫌《だいきら》いだ。こんな奴《やつ》は沢庵石《たくあんいし》をつけて海の底へ沈《しず》めちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目《だめ》だ。惚《ほ》れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云《い》う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐《やまあらし》がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな悪《わ》るい教師なら、早く免職《めんしょく》さしたらよかろう。教頭なんて文学士の癖《くせ》に意気地《いくじ》のないもんだ。蔭口《かげぐち》をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極《き》まってる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違《ちが》う。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢《わるもの》だなんて、人を馬鹿《ばか》にしている。大方|田舎《いなか》だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒《ぶっそう》な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐《とうふ》になるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵《たいてい》の事は出来るかも知れないが、――第一そんな廻《まわ》りくどい事をしないでも、じかにおれを捕《つら》まえて喧嘩《けんか》を吹き懸《か》けりゃ手数が省ける訳だ。おれが邪魔《じゃま》になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向《むこ》うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの果《はて》へ行ったって、のたれ死《じに》はしないつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
ここへ来た時第一番に氷水を奢《おご》ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一|杯《ぱい》しか飲まなかったから一銭五|厘《りん》しか払《はら》わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師《さぎし》の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清《きよ》から三円借りている。その三円は五年|経《た》った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さ
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