》のような雲が、透《す》き徹《とお》る底の上を静かに伸《の》して行ったと思ったら、いつしか底の奥《おく》に流れ込んで、うすくもやを掛《か》けたようになった。
もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君にお逢《あ》いですかと野だが云う。赤シャツは馬鹿《ばか》あ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚《も》たした奴《やつ》を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……と野だが振り返った時、おれは皿《さら》のような眼《め》を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻《か》いた。何という猪口才《ちょこざい》だろう。
船は静かな海を岸へ漕《こ》ぎ戻《もど》る。君|釣《つり》はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝《ね》ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草《まきたばこ》を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪《ろ》の足で掻き分けられた浪《なみ》の上を揺《ゆ》られながら漾《ただよ》っていった。「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発《ふんぱつ》してやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故《えんこ》もない事を云い出した。「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒《おおさわ》ぎです」と野だはにやにやと笑った。こいつの云う事は一々|癪《しゃく》に障《さわ》るから妙だ。「しかし君注意しないと、険呑《けんのん》ですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟《かくご》です」と云ってやった。実際おれは免職《めんしょく》になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及《およ》ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互《たがい》に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力《じんりょく》しているんですよ」と野だが人間|並《なみ》の事を云った。野だのお世話になるくらいなら首を縊《くく》って死んじまわあ。
「それでね、生徒は君の来たのを大変|歓迎《かんげい》しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢《がまん》だと思って、辛防《しんぼう》してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕《ぼく》が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒《めんどう》な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺《うかが》うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊《たんぱく》には行《ゆ》かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏《とぼ》しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書《りれきしょ》にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰《だれ》が乗じたって怖《こわ》くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
野だが大人《おとな》しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫《とも》の方で船頭と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰《だ》れに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠《しょうこ》のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等《ぼくら》も君を呼んだ甲斐《かい》がない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好《い》いんでしょう」
赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑わ
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