意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜《ロシア》の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落《しゃれ》た。そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝《しば》の写真師で、米のなる木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖《くせ》だ。誰《だれ》を捕《つら》まえても片仮名の唐人《とうじん》の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力《しゃりき》だか見当がつくものか、少しは遠慮《えんりょ》するがいい。云《い》うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤《まっか》な雑誌を学校へ持って来て難有《ありがた》そうに読んでいる。山嵐《やまあらし》に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
 それから赤シャツと野だは一生懸命《いっしょうけんめい》に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人《ふたり》で十五六上げた。可笑《おか》しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。あなたの手腕《しゅわん》でゴルキなんですから、私《わたし》なんぞがゴルキなのは仕方がありません。当り前ですなと野だが答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ肥料《こやし》には出来るそうだ。赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。おれは一|匹《ぴき》で懲《こ》りたから、胴の間へ仰向《あおむ》けになって、さっきから大空を眺めていた。釣をするよりこの方がよっぽど洒落《しゃれ》ている。
 すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよく聞《きこ》えない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら清《きよ》の事を考えている。金があって、清をつれて、こんな奇麗《きれい》な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。清は皺苦茶《しわくちゃ》だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥《は》ずかしい心持ちはしない。野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣《りょううんかく》へのろうが、到底寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツを冷《ひや》かすに違いない。江戸っ子は軽薄《けいはく》だと云うがなるほどこんなものが田舎巡《いなかまわ》りをして、私《わたし》は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か云うが途切《とぎ》れ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本当ですよ」
 おれは外の言葉には耳を傾《かたむ》けなかったが、バッタと云う野だの語《ことば》を聴《き》いた時は、思わずきっとなった。野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭《めいりょう》におれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。おれは動かないでやはり聞いていた。
「また例の堀田《ほった》が……」「そうかも知れない……」「天麩羅《てんぷら》……ハハハハハ」「……煽動《せんどう》して……」「団子《だんご》も?」
 言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話《ないしょばな》しをしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが雪踏《せった》だろうが、非はおれにある事じゃない。校長がひとまずあずけろと云ったから、狸《たぬき》の顔にめんじてただ今のところは控《ひか》えているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆《けふで》でもしゃぶって引っ込んでるがいい。おれの事は、遅《おそ》かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支《さしつか》えはないが、また例の堀田が[#「また例の堀田が」に傍点]とか煽動して[#「煽動して」に傍点]とか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽動して騒動《そうどう》を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香《せんこう》の烟《けむり
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