ないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中《かいちゅう》をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏《ふ》みつけるのじゃない、清をおれの片破《かたわ》れと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶《あまちゃ》だろうが、他人から恵《めぐみ》を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有《ありがた》いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊《たっ》といお礼と思わなければならない。
おれはこれでも山嵐に一銭五厘|奮発《ふんぱつ》させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有《ありがた》いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣《ひれつ》な振舞《ふるまい》をするとは怪《け》しからん野郎《やろう》だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
おれはここまで考えたら、眠《ねむ》くなったからぐうぐう寝《ね》てしまった。あくる日は思う仔細《しさい》があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨《はくぼく》が一本|竪《たて》に寝ているだけで閑静《かんせい》なものだ。おれは、控所《ひかえじょ》へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握《にぎ》って来た。おれは膏《あぶら》っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗《あせ》をかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑《めいわく》でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱《ひじ》を突《つ》いて、あの盤台面《ばんだいづら》をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。まだ誰《だれ》にも話しやしますまいねと云った。女のような声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎《なぞ》をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬《しのぎ》を削《けず》ってる真中《まんなか》へ出て堂々とおれの肩《かた》を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
おれは教頭に向《むか》って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽《ろうばい》して、君そんな無法な事をしちゃ困る。僕《ぼく》は堀田《ほった》君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動《そうどう》を起すつもりで来たんじゃなかろうと妙《みょう》に常識をはずれた質問をするから、当《あた》り前《まえ》です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼《いらい》に及《およ》ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君|大丈夫《だいじょうぶ》かいと赤シャツは念を押《お》した。どこまで女らしいんだか奥行《おくゆき》がわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄《つじつま》の合わない、論理に欠けた注文をして恬然《てんぜん》としている。しかもこのおれを疑ぐってる。憚《はばか》りながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古《ほご》にするようなさもしい了見《りょうけん》はもってるもんか。
ところへ両隣《りょうどな》りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤シャツは歩《あ》るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴《くつ》の底をそっと落《おと》す。音を立てないであるくのが
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