った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平《たいら》だ。赤シャツのお陰《かげ》ではなはだ愉快《ゆかい》だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議《ほつぎ》をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々《われわれ》はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑《めいわく》だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫《だいじょうぶ》ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだろうが、小旦那《こだんな》だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草セ。これで当人は私《わたし》も江戸《えど》っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染《なじみ》の芸者の渾名《あだな》か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺《なが》めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨《いかり》を卸した。幾尋《いくひろ》あるかねと赤シャツが聞くと、六尋《むひろ》ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛《たい》はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆《ごうたん》なものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰《く》り出して投げ入れる。何だか先に錘《おもり》のような鉛《なまり》がぶら下がってるだけだ。浮《うき》がない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。おれには到底《とうてい》出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞
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