なんで無愛想《ぶあいそ》のおれへ口を掛《か》けたんだろう。大方|高慢《こうまん》ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘《さそ》ったに違いない。そんな事で見せびらかされるおれじゃない。鮪《まぐろ》の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。おれだって人間だ、いくら下手《へた》だって糸さえ卸《おろ》しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行ゥないんだ、嫌《きら》いだから行かないんじゃないと邪推《じゃすい》するに相違《そうい》ない。おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度《したく》を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜《はま》へ行った。船頭は一人《ひとり》で、船《ふね》は細長い東京辺では見た事もない恰好《かっこう》である。さっきから船中|見渡《みわた》すが釣竿《つりざお》が一本も見えない。釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖釣《おきづり》には竿は用いません、糸だけでげすと顋を撫《な》でて黒人《くろうと》じみた事を云った。こう遣《や》り込《こ》められるくらいならだまっていればよかった。
 船頭はゆっくりゆっくり漕《こ》いでいるが熟練は恐《おそろ》しいもので、見返《みか》えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺《こうはくじ》の五重の塔《とう》が森の上へ抜《ぬ》け出して針のように尖《とん》がってる。向側《むこうがわ》を見ると青嶋《あおしま》が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松《まつ》ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望《ちょうぼう》していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹《ふ》かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直《まっすぐ》で、上が傘《かさ》のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙《だま》っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻《まわ》
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