い。ただ懲役《ちょうえき》に行かないで生きているばかりである。
 母が病気で死ぬ二三日《にさんち》前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨《あばらぼね》を撲《う》って大いに痛かった。母が大層|怒《おこ》って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊《とま》りに行っていた。するととうとう死んだと云う報知《しらせ》が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人《おとな》しくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜《くや》しかったから、兄の横っ面を張って大変|叱《しか》られた。
 母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮《くら》していた。おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目《だめ》だ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目なんだか今に分らない。妙《みょう》なおやじがあったもんだ。兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍《いっぺん》ぐらいの割で喧嘩《けんか》をしていた。ある時|将棋《しょうぎ》をさしたら卑怯《ひきょう》な待駒《まちごま》をして、人が困ると嬉《うれ》しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間《みけん》へ擲《たた》きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付《いつ》けた。おやじがおれを勘当《かんどう》すると言い出した。
 その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清《きよ》という下女が、泣きながらおやじに詫《あや》まって、ようやくおやじの怒《いか》りが解けた。それにもかかわらずあまりおやじを怖《こわ》いとは思わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。この下女はもと由緒《ゆいしょ》のあるものだったそうだが、瓦解《がかい》のときに零落《れいらく》して、つい奉公《ほうこう》までするようになったのだと聞いている。だから婆《ばあ》さんである。この婆さんがどういう因縁《いんえん》か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想《あいそ》をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾《つまはじ》きをする――このおれを無暗に珍重《ちん
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