なるほど狸だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き払《はら》ってる。おれは仕様がないから
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑《あんかん》として、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから……」
「出来なくなっても私の知った事じゃありません」
「君そう我儘《わがまま》を云うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと云うと、君の将来の履歴《りれき》に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
「履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりゃごもっとも――君の云うところは一々ごもっともだが、わたしの云う方も少しは察して下さい。君が是非辞職すると云うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい」
 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が蒼《あお》くなったり、赤くなったりして、可愛想《かわいそう》になったからひとまず考え直す事として引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせ遣っつけるなら塊《かた》めて、うんと遣っつける方がいい。
 山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支《さしつか》えあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧《りこう》らしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。
 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶《あいさつ》をして浜《はま》の港屋まで下《さが》ったが、人に知れないように引き返して、温泉《ゆ》の町の枡屋《ますや》の表二階へ潜《ひそ》んで、障子《しょうじ》へ穴をあけて覗《のぞ》き出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツが忍《しの》んで来ればどうせ夜だ。しかも宵《よい》の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極《きま》ってる。最初の二晩はおれも十一時|頃《ごろ》まで張番《はりばん》をしたが、赤シャツの影《かげ》も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目を
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