れは依然《いぜん》として在来の関係を保って、交際をつづけている。野芹川で逢《あ》った翌日などは、学校へ出ると第一番におれの傍《そば》へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに露西亜《ロシア》文学を釣《つ》りに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。おれは少々|憎《にく》らしかったから、昨夜《ゆうべ》は二返逢いましたねと云《い》ったら、ええ停車場《ていしゃば》で――君はいつでもあの時分|出掛《でか》けるのですか、遅いじゃないかと云う。野芹川の土手でもお目に懸《かか》りましたねと喰《く》らわしてやったら、いいえ僕《ぼく》はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。何もそんなに隠《かく》さないでもよかろう、現に逢ってるんだ。よく嘘《うそ》をつく男だ。これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。世の中は随分妙《ずいぶんみょう》なものだ。
ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、惜《お》しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時|頃《ごろ》出掛けて行った。赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔《むかし》に引き払《はら》って立派な玄関《げんかん》を構えている。家賃は九円五|拾銭《じっせん》だそうだ。田舎《いなか》へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発《ふんぱつ》して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次《とりつぎ》に出て来た。この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その癖渡《くせわた》りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪《わ》るい。
赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭《くさ》い烟草《たばこ》をふかしながら、こんな事を云った。「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績《せいせき》がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼《しんらい》しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「今のくらいで充分《じゅうぶん》です。ただ先だってお話しし
前へ
次へ
全105ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング