殺せられている。妻君は金にならぬ文章を道楽文章と云う。道楽文章を作るものを意気地《いくじ》なしと云う。
 道也の言葉を聞いた妻君は、火箸《ひばし》を灰のなかに刺したまま、
「今でも、そんな御金が這入《はい》る見込があるんですか」と不思議そうに尋ねた。
「今は昔より下落したと云うのかい。ハハハハハ」と道也先生は大きな声を出して笑った。妻君は毒気《どっき》を抜かれて口をあける。
「どうりゃ一勉強《ひとべんきょう》やろうか」と道也は立ち上がる。その夜彼は彼の著述人格論を二百五十頁までかいた。寝たのは二時過である。

        四

「どこへ行く」と中野君が高柳君をつらまえた。所は動物園の前である。太い桜の幹《みき》が黒ずんだ色のなかから、銀のような光りを秋の日に射返して、梢《こずえ》を離れる病葉《わくらば》は風なき折々行人《こうじん》の肩にかかる。足元には、ここかしこに枝を辞したる古い奴《やつ》ががさついている。
 色は様々である。鮮血を日に曝《さら》して、七日《なぬか》の間|日《ひ》ごとにその変化を葉裏に印して、注意なく一枚のなかに畳み込めたら、こんな色になるだろうと高柳君はさっきから眺《なが》めていた。血を連想した時高柳君は腋《わき》の下から何か冷たいものが襯衣《シャツ》に伝わるような気分がした。ごほんと取り締りのない咳《せき》を一つする。
 形も様々である。火にあぶったかき餅《もち》の状《なり》は千差万別であるが、我も我もとみんな反《そ》り返《かえ》る。桜の落葉もがさがさに反《そ》り返って、反り返ったまま吹く風に誘われて行く。水気《みずけ》のないものには未練も執着もない。飄々《ひょうひょう》としてわが行末を覚束《おぼつか》ない風に任せて平気なのは、死んだ後《あと》の祭りに、から騒ぎにはしゃぐ了簡《りょうけん》かも知れぬ。風にめぐる落葉と攫《さら》われて行くかんな屑《くず》とは一種の気狂《きちがい》である。ただ死したるものの気狂である。高柳君は死と気狂とを自然界に点綴《てんてつ》した時、瘠《や》せた両肩を聳《そび》やかして、またごほんと云ううつろな咳《せき》を一つした。
 高柳君はこの瞬間に中野君からつらまえられたのである。ふと気がついて見ると世は太平である。空は朗らかである。美しい着物をきた人が続々行く。相手は薄羅紗《うすらしゃ》の外套《がいとう》に恰好《かっこう》のいい姿を包んで、顋《あご》の下に真珠の留針《とめばり》を輝かしている。――高柳君は相手の姿を見守ったなり黙っていた。
「どこへ行く」と青年は再び問うた。
「今図書館へ行った帰りだ」と相手はようやく答えた。
「また地理学教授法じゃないか。ハハハハ。何だか不景気な顔をしているね。どうかしたかい」
「近頃は喜劇の面《めん》をどこかへ遺失《おと》してしまった」
「また新橋の先まで探《さ》がしに行って、拳突《けんつく》を喰ったんじゃないか。つまらない」
「新橋どころか、世界中探がしてあるいても落ちていそうもない。もう、御やめだ」
「何を」
「何でも御やめだ」
「万事御やめか。当分御やめがよかろう。万事御やめにして僕といっしょに来たまえ」
「どこへ」
「今日はそこに慈善音楽会があるんで、切符を二枚買わされたんだが、ほかに誰も行《い》き手《て》がないから、ちょうどいい。君行きたまえ」
「いらない切符などを買うのかい。もったいない事をするんだな」
「なに義理だから仕方がない。おやじが買ったんだが、おやじは西洋音楽なんかわからないからね」
「それじゃ余った方を送ってやればいいのに」
「実は君の所へ送ろうと思ったんだが……」
「いいえ。あすこへさ」
「あすことは。――うん。あすこか。何、ありゃ、いいんだ。自分でも買ったんだ」
 高柳君は何とも返事をしないで、相手を真正面から見ている。中野君は少々恐縮の微笑を洩《も》らして、右の手に握ったままの、山羊《やぎ》の手袋で外套《がいとう》の胸をぴしゃぴしゃ敲《たた》き始めた。
「穿《は》めもしない手袋を握ってあるいてるのは何のためだい」
「なに、今ちょっと隠袋《ポッケット》から出したんだ」と云いながら中野君は、すぐ手袋をかくしの裏《うち》に収めた。高柳君の癇癪《かんしゃく》はこれで少々治《おさ》まったようである。
 ところへ後ろからエーイと云う掛声がして蹄《ひづめ》の音が風を動かしてくる。両人《ふたり》は足早に道傍《みちばた》へ立ち退《の》いた。黒塗《くろぬり》のランドーの蓋《おおい》を、秋の日の暖かきに、払い退けた、中には絹帽《シルクハット》が一つ、美しい紅《くれな》いの日傘《ひがさ》が一つ見えながら、両人の前を通り過ぎる。
「ああ云う連中が行くのかい」と高柳君が顋《あご》で馬車の後ろ影を指《さ》す。
「あれは徳川侯爵だよ」と中野君は教えた。
「よく、知ってるね。君はあの人の家来かい」
「家来じゃない」と中野君は真面目《まじめ》に弁解した。高柳君は腹のなかでまたちょっと愉快を覚えた。
「どうだい行こうじゃないか。時間がおくれるよ」
「おくれると逢えないと云うのかね」
 中野君は、すこし赤くなった。怒ったのか、弱点をつかれたためか、恥ずかしかったのか、わかるのは高柳君だけである。
「とにかく行こう。君はなんでも人の集まる所やなにかを嫌ってばかりいるから、一人坊《ひとりぼ》っちになってしまうんだよ」
 打つものは打たれる。参るのは今度こそ高柳君の番である。一人坊っちと云う言葉を聞いた彼は、耳がしいんと鳴って、非常に淋しい気持がした。
「いやかい。いやなら仕方がない。僕は失敬する」
 相手は同情の笑を湛《たた》えながら半歩|踵《くびす》をめぐらしかけた。高柳君はまた打たれた。
「いこう」と単簡《たんかん》に降参する。彼が音楽会へ臨むのは生れてから、これが始めてである。
 玄関にかかった時は受付が右へ左りへの案内で忙殺《ぼうさつ》されて、接待掛りの胸につけた、青いリボンを見失うほど込み合っていた。突き当りを右へ折れるのが上等で、左りへ曲がるのが並等である。下等はないそうだ。中野君は無論上等である。高柳君を顧みながら、こっちだよと、さも物馴《ものな》れたさまに云う。今日に限って、特別に下等席を設けて貰って、そこへ自分だけ這入《はい》って聴《き》いて見たいと一人坊っちの青年は、中野君のあとをつきながら階段を上ぼりつつ考えた。己《おの》れの右を上《のぼ》る人も、左りを上る人も、またあとからぞろぞろついて来るものも、皆異種類の動物で、わざと自分を包囲して、のっぴきさせず二階の大広間へ押し上げた上、あとから、慰み半分に手を拍《う》って笑う策略《さくりゃく》のように思われた。後ろを振り向くと、下から緑《みど》りの滴《した》たる束髪《そくはつ》の脳巓《のうてん》が見える。コスメチックで奇麗《きれい》な一直線を七分三分の割合に錬《ね》り出した頭蓋骨《ずがいこつ》が見える。これらの頭が十も二十も重なり合って、もう高柳周作は一歩でも退く事はならぬとせり上がってくる。
 楽堂の入口を這入《はい》ると、霞《かすみ》に酔うた人のようにぽうっとした。空を隠す茂みのなかを通り抜けて頂《いただき》に攀《よ》じ登った時、思いも寄らぬ、眼の下に百里の眺《なが》めが展開する時の感じはこれである。演奏台は遥《はる》かの谷底にある。近づくためには、登り詰めた頂から、規則正しく排列された人間の間を一直線に縫うがごとくに下りて、自然と逼《せま》る擂鉢《すりばち》の底に近寄らねばならぬ。擂鉢《すりばち》の底は半円形を劃して空に向って広がる内側面には人間の塀《へい》が段々に横輪をえがいている。七八段を下りた高柳君は念のために振り返って擂鉢の側面を天井《てんじょう》まで見上げた時、目がちらちらしてちょっと留った。excuse me と云って、大きな異人が、高柳君を蔽《おお》いかぶせるようにして、一段下へ通り抜けた。駝鳥《だちょう》の白い毛が鼻の先にふらついて、品のいい香りがぷんとする。あとから、脳巓《のうてん》の禿《は》げた大男が絹帽《シルクハット》を大事そうに抱えて身を横にして女につきながら、二人を擦《す》り抜ける。
「おい、あすこに椅子が二つ空《あ》いている」と物馴《ものな》れた中野君は階段を横へ切れる。並んでいる人は席を立って二人を通す。自分だけであったら、誰も席を立ってくれるものはあるまいと高柳君は思った。
「大変な人だね」と椅子に腰をおろしながら中野君は満場を見廻わす。やがて相手の服装に気がついた時、急に小声になって、
「おい、帽子をとらなくっちゃ、いけないよ」と云う。
 高柳君は卒然として帽子を取って、左右をちょっと見た。三四人の眼が自分の頭の上に注《そそ》がれていたのを発見した時、やっぱり包囲攻撃だなと思った。なるほど帽子を被《かぶ》っていたものはこの広い演奏場に自分一人である。
「外套《がいとう》は着ていてもいいのか」と中野君に聞いて見る。
「外套は構わないんだ。しかしあつ過ぎるから脱ごうか」と中野君はちょっと立ち上がって、外套の襟《えり》を三寸ばかり颯《さ》と返したら、左の袖《そで》がするりと抜けた、右の袖を抜くとき、領《えり》のあたりをつまんだと思ったら、裏を表《おも》てに、外套ははや畳まれて、椅子《いす》の背中《せなか》を早くも隠した。下は仕立《した》ておろしのフロックに、近頃|流行《はや》る白いスリップが胴衣《チョッキ》の胸開《むねあき》を沿うて細い筋を奇麗《きれい》にあらわしている。高柳君はなるほどいい手際《てぎわ》だと羨《うらや》ましく眺めていた。中野君はどう云《いう》ものか容易に坐らない。片手を椅子の背に凭《も》たせて、立ちながら後ろから、左右へかけて眺めている。多くの人の視線は彼の上に落ちた。中野君は平気である。高柳君はこの平気をまた羨《うらや》ましく感じた。
 しばらくすると、中野君は千以上陳列せられたる顔のなかで、ようやくあるものを物色し得たごとく、豊かなる双頬《そうきょう》に愛嬌《あいきょう》の渦《うず》を浮かして、軽《かろ》く何人《なんびと》にか会釈《えしゃく》した。高柳君は振り向かざるを得ない。友の挨拶《あいさつ》はどの辺《へん》に落ちたのだろうと、こそばゆくも首を捩《ね》じ向けて、斜《なな》めに三段ばかり上を見ると、たちまち目つかった。黒い髪のただ中に黄の勝った大きなリボンの蝶《ちょう》を颯《さっ》とひらめかして、細くうねる頸筋《くびすじ》を今真直に立て直す女の姿が目つかった。紅《くれな》いは眼の縁《ふち》を薄く染めて、潤《うるお》った眼睫《まつげ》の奥から、人の世を夢の底に吸い込むような光りを中野君の方に注いでいる。高柳君はすわやと思った。
 わが穿《は》く袴《はかま》は小倉《こくら》である。羽織は染めが剥《は》げて、濁った色の上に垢《あか》が容赦《ようしゃ》なく日光を反射する。湯には五日前に這入《はい》ったぎりだ。襯衣《シャツ》を洗わざる事は久しい。音楽会と自分とはとうてい両立するものでない。わが友と自分とは?――やはり両立しない。友のハイカラ姿とこの魔力ある眼の所有者とは、千里を隔てても無線の電気がかかるべく作られている。この一堂の裡《うち》に綺羅《きら》の香《かお》りを嗅《か》ぎ、和楽の温《あたた》かみを吸うて、落ち合うからは、二人の魂は無論の事、溶《と》けて流れて、かき鳴らす箏《こと》の線《いと》の細きうちにも、めぐり合わねばならぬ。演奏会は数千の人を集めて、数千の人はことごとく双手《そうしゅ》を挙《あ》げながらこの二人を歓迎している。同じ数千の人はことごとく五|指《し》を弾《はじ》いて、われ一人を排斥している。高柳君はこんな所へ来なければよかったと思った。友はそんな事を知りようがない。
「もう時間だ、始まるよ」と活版に刷った曲目を見ながら云う。
「そうか」と高柳君は器械的に眼を活版の上に落した。
 一、バイオリン、セロ、ピヤノ合奏とある。高柳君はセロの何物たるを知らぬ。二、ソナタ……ベートーベン作とある。名前だけは心得て
前へ 次へ
全23ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング