いる。三、アダジョ……パァージャル作とある。これも知らぬ。四、と読みかけた時|拍手《はくしゅ》の音が急に梁《はり》を動かして起った。演奏者はすでに台上に現われている。
やがて三部合奏曲は始まった。満場は化石したかのごとく静かである。右手の窓の外に、高い樅《もみ》の木が半分見えて後ろは遐《はる》かの空の国に入る。左手の碧《みど》りの窓掛けを洩《も》れて、澄み切った秋の日が斜《なな》めに白い壁を明らかに照らす。
曲は静かなる自然と、静かなる人間のうちに、快よく進行する。中野は絢爛《けんらん》たる空気の振動を鼓膜《こまく》に聞いた。声にも色があると嬉《うれ》しく感じている。高柳は樅の枝を離るる鳶《とび》の舞う様《さま》を眺めている。鳶が音楽に調子を合せて飛んでいる妙だなと思った。
拍手がまた盛《さかん》に起る。高柳君ははっと気がついた。自分はやはり異種類の動物のなかに一人坊《ひとりぼ》っちでおったのである。隣りを見ると中野君は一生懸命に敲《たた》いている。高い高い鳶の空から、己《おの》れをこの窮屈《きゅうくつ》な谷底に呼び返したものの一人は、われを無理矢理にここへ連れ込んだ友達である。
演奏は第二に移る。千余人の呼吸は一度にやむ。高柳君の心はまた豊かになった。窓の外を見ると鳶はもう舞っておらぬ。眼を移して天井《てんじょう》を見る。周囲一尺もあろうと思われる梁の六角形に削《けず》られたのが三本ほど、楽堂を竪《たて》に貫《つら》ぬいている、後ろはどこまで通っているか、頭《かしら》を回《めぐ》らさないから分らぬ。所々に模様に崩《くず》した草花が、長い蔓《つる》と共に六角を絡《から》んでいる。仰向《あおむ》いて見ていると広い御寺のなかへでも這入《はい》った心持になる。そうして黄色い声や青い声が、梁を纏《まと》う唐草《からくさ》のように、縺《もつ》れ合って、天井から降《ふ》ってくる。高柳君は無人《むにん》の境《きょう》に一人坊っちで佇《たたず》んでいる。
三度目の拍手が、断わりもなくまた起る。隣りの友達は人一倍けたたましい敲き方をする。無人の境におった一人坊っちが急に、霰《あられ》のごとき拍手のなかに包囲された一人坊っちとなる。包囲はなかなか已《や》まぬ。演奏者が闥《たつ》を排《はい》してわが室《しつ》に入らんとする間際《まぎわ》になおなお烈《はげ》しくなった。ヴァイオリンを温かに右の腋下《えきか》に護《まも》りたる演奏者は、ぐるりと戸側《とぎわ》に体《たい》を回《めぐ》らして、薄紅葉《うすもみじ》を点じたる裾模様《すそもよう》を台上に動かして来る。狂うばかりに咲き乱れたる白菊の花束を、飄《ひるが》える袖《そで》の影に受けとって、なよやかなる上躯《じょうく》を聴衆の前に、少しくかがめたる時、高柳は感じた。――この女の楽を聴《き》いたのは、聴かされたのではない。聴かさぬと云うを、ひそかに忍び寄りて、偸《ぬす》み聴いたのである。
演奏は喝采《かっさい》のどよめきの静まらぬうちにまた始まる。聴衆はとっさの際にことごとく死んでしまう。高柳君はまた自由になった。何だか広い原にただ一人立って、遥《はる》かの向うから熟柿《じゅくし》のような色の暖かい太陽が、のっと上《のぼ》ってくる心持ちがする。小供のうちはこんな感じがよくあった。今はなぜこう窮屈になったろう。右を見ても左を見ても人は我を擯斥《ひんせき》しているように見える。たった一人の友達さえ肝心《かんじん》のところで無残《むざん》の手をぱちぱち敲《たた》く。たよる所がなければ親の所へ逃げ帰れと云う話もある。その親があれば始からこんなにはならなかったろう。七つの時おやじは、どこかへ行ったなり帰って来ない。友達はそれから自分と遊ばなくなった。母に聞くと、おとっさんは今に帰る今に帰ると云った。母は帰らぬ父を、帰ると云ってだましたのである。その母は今でもいる。住み古《ふ》るした家を引き払って、生れた町から三里の山奥に一人|佗《わ》びしく暮らしている。卒業をすれば立派になって、東京へでも引き取るのが子の義務である。逃げて帰れば親子共|餓《う》えて死ななければならん。――たちまち拍手の声が一面に湧《わ》き返る。
「今のは面白かった。今までのうち一番よく出来た。非常に感じをよく出す人だ。――どうだい君」と中野君が聞く。
「うん」
「君面白くないか」
「そうさな」
「そうさなじゃ困ったな。――おいあすこの西洋人の隣りにいる、細《こま》かい友禅《ゆうぜん》の着物を着ている女があるだろう。――あんな模様が近頃|流行《はやる》んだ。派出《はで》だろう」
「そうかなあ」
「君はカラー・センスのない男だね。ああ云う派出な着物は、集会の時や何かにはごくいいのだね。遠くから見て、見醒《みざ》めがしない。うつくしくっていい」
「君のあれも、同じようなのを着ているね」
「え、そうかしら、何、ありゃ、いい加減《かげん》に着ているんだろう」
「いい加減に着ていれば弁解になるのかい」
中野君はちょっと会話をやめた。左の方に鼻眼鏡《はなめがね》をかけて揉上《もみあげ》を容赦《ようしゃ》なく、耳の上で剃《そ》り落した男が帳面を出してしきりに何か書いている。
「ありゃ、音楽の批評でもする男かな」と今度は高柳君が聞いた。
「どれ、――あの男か、あの黒服を着た。なあに、あれはね。画工《えかき》だよ。いつでも来る男だがね、来るたんびに写生帖を持って来て、人の顔を写している」
「断わりなしにか」
「まあ、そうだろう」
「泥棒だね。顔泥棒だ」
中野君は小さい声でくくと笑った。休憩時間は十|分《ぷん》である。廊下へ出るもの、喫煙に行くもの、用を足《た》して帰るもの、が高柳君の眼に写る。女は小供の時見た、豊国《とよくに》の田舎源氏《いなかげんじ》を一枚一枚はぐって行く時の心持である。男は芳年《よしとし》の書いた討ち入り当夜の義士が動いてるようだ。ただ自分が彼らの眼にどう写るであろうかと思うと、早く帰りたくなる。自分の左右前後は活動している。うつくしく活動している。しかし衣食のために活動しているのではない。娯楽のために活動している。胡蝶《こちょう》の花に戯《たわ》むるるがごとく、浮藻《うきも》の漣《さざなみ》に靡《なび》くがごとく、実用以上の活動を示している。この堂に入るものは実用以上に余裕のある人でなくてはならぬ。
自分の活動は食うか食わぬかの活動である。和煦《わく》の作用ではない粛殺《しゅくさつ》の運行である。儼《げん》たる天命に制せられて、無条件に生を享《う》けたる罪業《ざいごう》を償《つぐな》わんがために働らくのである。頭から云えば胡蝶のごとく、かく翩々《へんぺん》たる公衆のいずれを捕《とら》え来《きた》って比較されても、少しも恥《はず》かしいとは思わぬ。云いたき事、云うて人が点頭《うなず》く事、云うて人が尊《たっと》ぶ事はないから云わぬのではない。生活の競争にすべての時間を捧《ささ》げて、云うべき機会を与えてくれぬからである。吾《われ》が云いたくて云われぬ事は、世が聞きたくても聞かれぬ事は、天がわが手を縛《ばく》するからである。人がわが口を箝《かん》するからである。巨万の富をわれに与えて、一銭も使うなかれと命ぜられたる時は富なき昔《むか》しの心安きに帰る能《あた》わずして、命《めい》を下せる人を逆《さか》しまに詛《のろ》わんとす。われは呪《のろ》い死にに死なねばならぬか。――たちまち咽喉《のど》が塞《ふさ》がって、ごほんごほんと咳《せ》き入《い》る。袂《たもと》からハンケチを出して痰《たん》を取る。買った時の白いのが、妙な茶色に変っている。顔を挙《あ》げると、肩から観世《かんぜ》よりのように細い金鎖《きんぐさ》りを懸《か》けて、朱に黄を交《まじ》えた厚板の帯の間に時計を隠した女が、列のはずれに立って、中野君に挨拶《あいさつ》している。
「よう、いらっしゃいました」と可愛らしい二重瞼《ふたえまぶた》を細めに云う。
「いや、だいぶ盛会ですね。冬田さんは非常な出来でしたな」と中野君は半身を、女の方へ向けながら云う。
「ええ、大喜びで……」と云い捨てて下りて行く。
「あの女を知ってるかい」
「知るものかね」と高柳君は拳突《けんつく》を喰わす。
相手は驚ろいて黙ってしまった。途端《とたん》に休憩後の演奏は始まる。「四葉《よつば》の苜蓿花《うまごやし》」とか云うものである。曲の続く間は高柳君はうつらうつらと聴いている。ぱちぱちと手が鳴ると熱病の人が夢から醒《さ》めたように我に帰る。この過程を二三度繰り返して、最後の幻覚から喚《よ》び醒まされた時は、タンホイゼルのマーチで銅鑼《どら》を敲《たた》き大喇叭《おおらっぱ》を吹くところであった。
やがて、千余人の影は一度に動き出した。二人の青年は揉《も》まれながらに門を出た。
日はようやく暮れかかる。図書館の横手に聳《そび》える松の林が緑りの色を微《かす》かに残して、しだいに黒い影に変って行く。
「寒くなったね」
高柳君の答は力の抜けた咳《せき》二つであった。
「君さっきから、咳をするね。妙な咳だぜ。医者にでも見て貰ったら、どうだい」
「何、大丈夫だ」と云いながら高柳君は尖《とが》った肩を二三度ゆすぶった。松林を横切って、博物館の前に出る。大きな銀杏《いちょう》に墨汁《ぼくじゅう》を点《てん》じたような滴々《てきてき》の烏《からす》が乱れている。暮れて行く空に輝くは無数の落葉である。今は風さえ出た。
「君|二三日前《にさんちまえ》に白井道也《しらいどうや》と云う人が来たぜ」
「道也先生?」
「だろうと思うのさ。余り沢山ある名じゃないから」
「聞いて見たかい」
「聞こうと思ったが、何だかきまりが悪るかったからやめた」
「なぜ」
「だって、あなたは中学校で生徒から追い出された事はありませんかとも聞けまいじゃないか」
「追い出されましたかと聞かなくってもいいさ」
「しかし容易に聞きにくい男だよ。ありゃ、困る人だ。用事よりほかに云わない人だ」
「そんなになったかも知れない。元来何の用で君の所へなんぞ来たのだい」
「なあに、江湖雑誌《こうこざっし》の記者だって、僕の所へ談話の筆記に来たのさ」
「君の談話をかい。――世の中も妙な事になるものだ。やっぱり金が勝つんだね」
「なぜ」
「なぜって。――可哀想《かわいそう》に、そんなに零落《れいらく》したかなあ。――君道也先生、どんな、服装《なり》をしていた」
「そうさ、あんまり立派じゃないね」
「立派でなくっても、まあどのくらいな服装をしていた」
「そうさ。どのくらいとも云い悪《にく》いが、そうさ、まあ君ぐらいなところだろう」
「え、このくらいか、この羽織ぐらいなところか」
「羽織はもう少し色が好《い》いよ」
「袴《はかま》は」
「袴は木綿《もめん》じゃないが、その代りもっと皺苦茶《しわくちゃ》だ」
「要するに僕と伯仲《はくちゅう》の間か」
「要するに君と伯仲の間だ」
「そうかなあ。――君、背《せい》の高い、ひょろ長い人だぜ」
「背の高い、顔の細長い人だ」
「じゃ道也先生に違ない。――世の中は随分|無慈悲《むじひ》なものだなあ。――君番地を知ってるだろう」
「番地は聞かなかった」
「聞かなかった?」
「うん。しかし江湖雑誌《こうこざっし》で聞けばすぐわかるさ。何でもほかの雑誌や新聞にも関係しているかも知れないよ。どこかで白井道也と云う名を見たようだ」
音楽会の帰りの馬車や車は最前《さいぜん》から絡繹《らくえき》として二人を後ろから追い越して夕暮を吾家《わがや》へ急ぐ。勇ましく馳《か》けて来た二|梃《ちょう》の人力《じんりき》がまた追い越すのかと思ったら、大仏を横に見て、西洋軒のなかに掛声ながら引き込んだ。黄昏《たそがれ》の白き靄《もや》のなかに、逼《せま》り来る暮色を弾《はじ》き返すほどの目覚《めざま》しき衣《きぬ》は由《よし》ある女に相違ない。中野君はぴたりと留まった。
「僕はこれで失敬する。少し待ち合せている人があるから」
「西洋軒で会食すると
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