およそ一時代にあって初期の人は子のために生きる覚悟をせねばならぬ。中期の人は自己のために生きる決心が出来ねばならぬ。後期の人は父のために生きるあきらめをつけなければならぬ。明治は四十年立った。まず初期と見て差支《さしつかえ》なかろう。すると現代の青年たる諸君は大《おおい》に自己を発展して中期をかたちづくらねばならぬ。後《うし》ろを顧みる必要なく、前を気遣《きづか》う必要もなく、ただ自我を思《おもい》のままに発展し得る地位に立つ諸君は、人生の最大愉快を極《きわ》むるものである」
満場は何となくどよめき渡った。
「なぜ初期のものが先例にならん? 初期はもっとも不秩序の時代である。偶然の跋扈《ばっこ》する時代である。僥倖《ぎょうこう》の勢《いきおい》を得る時代である。初期の時代において名を揚《あ》げたるもの、家を起したるもの、財を積みたるもの、事業をなしたるものは必ずしも自己の力量に由《よ》って成功したとは云われぬ。自己の力量によらずして成功するは士のもっとも恥辱とするところである。中期のものはこの点において遥《はる》かに初期の人々よりも幸福である。事を成すのが困難であるから幸福である。困難にもかかわらず僥倖が少ないから幸福である。困難にもかかわらず力量しだいで思うところへ行けるほどの余裕があり、発展の道があるから幸福である。後期に至るとかたまってしまう。ただ前代を祖述《そじゅつ》するよりほかに身動きがとれぬ。身動きがとれなくなって、人間が腐った時、また波瀾《はらん》が起る。起らねば化石するよりほかにしようがない。化石するのがいやだから、自《みず》から波瀾を起すのである。これを革命と云うのである。
「以上は明治の天下にあって諸君の地位を説明したのである。かかる愉快な地位に立つ諸君はこの愉快に相当する理想を養わねばならん」
道也先生はここにおいて一転語《いってんご》を下した。聴衆は別にひやかす気もなくなったと見える。黙っている。
「理想は魂である。魂は形がないからわからない。ただ人の魂の、行為に発現するところを見て髣髴《ほうふつ》するに過ぎん。惜しいかな現代の青年はこれを髣髴することが出来ん。これを過去に求めてもない、これを現代に求めてはなおさらない。諸君は家庭に在《あ》って父母を理想とする事が出来ますか」
あるものは不平な顔をした。しかしだまっている。
「学校に在って教師を理想とする事が出来ますか」
「ノー、ノー」
「社会に在って紳士を理想とする事が出来ますか」
「ノー、ノー」
「事実上諸君は理想をもっておらん。家に在っては父母を軽蔑《けいべつ》し、学校に在っては教師を軽蔑し、社会に出でては紳士を軽蔑している。これらを軽蔑し得るのは見識である。しかしこれらを軽蔑し得るためには自己により大《だい》なる理想がなくてはならん。自己に何らの理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。現代の青年は滔々《とうとう》として日に堕落しつつある」
聴衆は少しく色めいた。「失敬な」とつぶやくものがある。道也先生は昂然《こうぜん》として壇下を睥睨《へいげい》している。
「英国風を鼓吹《こすい》して憚《はば》からぬものがある。気の毒な事である。己《おの》れに理想のないのを明かに暴露《ばくろ》している。日本の青年は滔々として堕落するにもかかわらず、いまだここまでは堕落せんと思う。すべての理想は自己の魂である。うちより出《いで》ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りようがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において皆奴隷である。奴隷をもって甘んずるのみならず、争って奴隷たらんとするものに何らの理想が脳裏《のうり》に醗酵《はっこう》し得る道理があろう。
「諸君。理想は諸君の内部から湧《わ》き出なければならぬ。諸君の学問見識が諸君の血となり肉となりついに諸君の魂となった時に諸君の理想は出来上るのである。付焼刃《つけやきば》は何にもならない」
道也先生はひやかされるなら、ひやかして見ろと云わぬばかりに片手の拳骨《げんこつ》をテーブルの上に乗せて、立っている。汚ない黒木綿《くろもめん》の羽織に、べんべらの袴《はかま》は最前《さいぜん》ほどに目立たぬ。風の音がごうと鳴る。
「理想のあるものは歩くべき道を知っている。大なる理想のあるものは大なる道をあるく。迷子《まいご》とは違う。どうあってもこの道をあるかねばやまぬ。迷いたくても迷えんのである。魂がこちらこちらと教えるからである。
「諸君のうちには、どこまで歩くつもりだと聞くものがあるかも知れぬ。知れた事である。行ける所まで行くのが人生である。誰しも自分の寿命を知ってるものはない。自分に知れない寿命は他人にはなおさらわからない。医者を家業にする専門家でも人間の寿命を勘定する訳には行かぬ。自分が何歳まで生きるかは、生きたあとで始めて言うべき事である。八十歳まで生きたと云う事は八十歳まで生きた事実が証拠立ててくれねばならん。たとい八十歳まで生きる自信があって、その自信通りになる事が明瞭《めいりょう》であるにしても、現に生きたと云う事実がない以上は誰も信ずるものはない。したがって言うべきものでない。理想の黙示《もくじ》を受けて行くべき道を行くのもその通りである。自己がどれほどに自己の理想を現実にし得るかは自己自身にさえ計られん。過去がこうであるから、未来もこうであろうぞと臆測《おくそく》するのは、今まで生きていたから、これからも生きるだろうと速断するようなものである。一種の山である。成功を目的にして人生の街頭に立つものはすべて山師《やまし》である」
高柳君の隣りにいた薩摩絣《さつまがすり》は妙な顔をした。
「社会は修羅場《しゅらじょう》である。文明の社会は血を見ぬ修羅場である。四十年|前《ぜん》の志士は生死の間《あいだ》に出入《しゅつにゅう》して維新の大業を成就した。諸君の冒《おか》すべき危険は彼らの危険より恐ろしいかも知れぬ。血を見ぬ修羅場は砲声剣光の修羅場よりも、より深刻に、より悲惨である。諸君は覚悟をせねばならぬ。勤王の志士以上の覚悟をせねばならぬ。斃《たお》るる覚悟をせねばならぬ。太平の天地だと安心して、拱手《きょうしゅ》して成功を冀《こいねが》う輩《はい》は、行くべき道に躓《つまず》いて非業《ひごう》に死したる失敗の児《じ》よりも、人間の価値は遥《はる》かに乏しいのである。
「諸君は道を行かんがために、道を遮《さえ》ぎるものを追わねばならん。彼らと戦うときに始めて、わが生涯《しょうがい》の内生命《ないせいめい》に、勤王の諸士があえてしたる以上の煩悶《はんもん》と辛惨《しんさん》とを見出し得るのである。――今日は風が吹く。昨日《きのう》も風が吹いた。この頃の天候は不穏である。しかし胸裏《きょうり》の不穏はこんなものではない」
道也先生は、がたつく硝子窓《ガラスまど》を通して、往来の方を見た。折から一陣の風が、会釈《えしゃく》なく往来の砂を捲《ま》き上げて、屋《や》の棟《むね》に突き当って、虚空《こくう》を高く逃《のが》れて行った。
「諸君。諸君のどれほどに剛健なるかは、わたしには分らん。諸君自身にも知れぬ。ただ天下後世が証拠だてるのみである。理想の大道《たいどう》を行き尽して、途上に斃るる刹那《せつな》に、わが過去を一瞥《いちべつ》のうちに縮め得て始めて合点《がてん》が行《ゆ》くのである。諸君は諸君の事業そのものに由《よ》って伝えられねばならぬ。単に諸君の名に由って伝えられんとするは軽薄である」
高柳君は何となくきまりがわるかった。道也の輝やく眼が自分の方に注《そそ》いでいるように思《おもわ》れる。
「理想は人によって違う。吾々は学問をする。学問をするものの理想は何であろう」
聴衆は黙然《もくねん》として応ずるものがない。
「学問をするものの理想は何であろうとも――金でない事だけはたしかである」
五六ヵ所に笑声が起る。道也先生の裕福《ゆうふく》ならぬ事はその服装を見たものの心から取り除《の》けられぬ事実である。道也先生は羽織のゆきを左右の手に引っ張りながら、まず徐《おもむ》ろにわが右の袖《そで》を見た。次に眼を転じてまた徐ろにわが左の袖を見た。黒木綿《くろもめん》の織目のなかに砂がいっぱいたまっている。
「随分きたない」と落ちつき払って云った。
笑声《しょうせい》が満場に起る。これはひやかしの笑声ではない。道也先生はひやかしの笑声を好意の笑声で揉《も》み潰《つぶ》したのである。
「せんだって学問を専門にする人が来て、私《わたし》も妻《さい》をもろうて子が出来た。これから金を溜《た》めねばならぬ。是非共子供に立派な教育をさせるだけは今のうちに貯蓄して置かねばならん。しかしどうしたら貯蓄が出来るでしょうかと聞いた。
「どうしたら学問で金がとれるだろうと云う質問ほど馬鹿気た事はない。学問は学者になるものである。金になるものではない。学問をして金をとる工夫《くふう》を考えるのは北極へ行って虎狩をするようなものである」
満場はまたちょっとどよめいた。
「一般の世人は労力と金の関係について大《だい》なる誤謬《ごびゅう》を有している。彼らは相応の学問をすれば相応の金がとれる見込のあるものだと思う。そんな条理は成立する訳がない。学問は金に遠ざかる器械である。金がほしければ金を目的にする実業家とか商買人になるがいい。学者と町人とはまるで別途の人間であって、学者が金を予期して学問をするのは、町人が学問を目的にして丁稚《でっち》に住み込むようなものである」
「そうかなあ」と突飛《とっぴ》な声を出す奴《やつ》がいる。聴衆はどっと笑った。道也先生は平然として笑《わらい》のしずまるのを待っている。
「だから学問のことは学者に聞かなければならん。金が欲しければ町人の所へ持って行くよりほかに致し方はない」
「金が欲しい」とまぜかえす奴が出る。誰だかわからない。道也先生は「欲しいでしょう」と云ったぎり進行する。
「学問すなわち物の理がわかると云う事と生活の自由すなわち金があると云う事とは独立して関係のないのみならず、かえって反対のものである。学者であればこそ金がないのである。金を取るから学者にはなれないのである。学者は金がない代りに物の理がわかるので、町人は理窟《りくつ》がわからないから、その代りに金を儲《もう》ける」
何か云うだろうと思って道也先生は二十秒ほど絶句して待っている。誰も何も云わない。
「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚《ぐ》の極《きょく》である。しかも世間一般はそう誤認している。あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違ない、カルチュアーもあるにきまっていると――こう考える。ところがその実はカルチュアーを受ける暇がなければこそ金をもうける時間が出来たのである。自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、同時にカルチュアーも授けると云うほど贔屓《ひいき》にはせんのである。この見やすき道理も弁《べん》ぜずして、かの金持ち共は己惚《うぬぼ》れて……」
「ひや、ひや」「焼くな」「しっ、しっ」だいぶ賑《にぎ》やかになる。
「自分達は社会の上流に位して一般から尊敬されているからして、世の中に自分ほど理窟《りくつ》に通じたものはない。学者だろうが、何だろうがおれに頭をさげねばならんと思うのは憫然《びんぜん》のしだいで、彼らがこんな考を起す事自身がカルチュアーのないと云う事実を証明している」
高柳君の眼は輝やいた。血が双頬《そうきょう》に上《のぼ》ってくる。
「訳《わけ》のわからぬ彼らが己惚《うぬぼれ》はとうてい済度《さいど》すべからざる事とするも、天下社会から、彼らの己惚をもっともだと是認するに至っては愛想《あいそ》の尽きた不見識と云わねばならぬ。よく云う事だが、あの男もあのくらいな社会上の地位にあって相応の財産も所有している事だから万更そんな訳のわからない事もなかろう。豈計《あにはか》らんやある場合には、そんな社会上の地位を得て相当の財産を
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