有しておればこそ訳がわからないのである」
 高柳君は胸の苦しみを忘れて、ひやひやと手を打った。隣の薩摩絣《さつまがすり》はえへんと嘲弄的《ちょうろうてき》な咳払《せきばらい》をする。
「社会上の地位は何できまると云えば――いろいろある。第一カルチュアーできまる場合もある。第二|門閥《もんばつ》できまる場合もある。第三には芸能できまる場合もある。最後に金できまる場合もある。しかしてこれはもっとも多い。かようにいろいろの標準があるのを混同して、金で相場がきまった男を学問で相場がきまった男と相互に通用し得るように考えている。ほとんど盲目《めくら》同然である」
 エヘン、エヘンと云う声が散らばって五六ヵ所に起る。高柳君は口を結んで、鼻から呼吸《いき》をはずませている。
「金で相場のきまった男は金以外に融通は利《き》かぬはずである。金はある意味において貴重かも知れぬ。彼らはこの貴重なものを擁《よう》しているから世の尊敬を受ける。よろしい。そこまでは誰も異存はない。しかし金以外の領分において彼らは幅《はば》を利かし得る人間ではない、金以外の標準をもって社会上の地位を得る人の仲間入は出来ない。もしそれが出来ると云えば学者も金持ちの領分へ乗り込んで金銭本位の区域内で威張っても好《い》い訳になる。彼らはそうはさせぬ。しかし自分だけは自分の領分内におとなしくしている事を忘れて他の領分までのさばり出ようとする。それが物のわからない、好い証拠である」
 高柳君は腰を半分浮かして拍手をした。人間は真似《まね》が好《すき》である。高柳君に誘い出されて、ぱちぱちの声が四方に起る。冷笑党は勢《いきおい》の不可なるを知って黙した。
「金は労力の報酬である。だから労力を余計にすれば金は余計にとれる。ここまでは世間も公平である。(否《いな》これすらも不公平な事がある。相場師などは労力なしに金を攫《つか》んでいる)しかし一歩進めて考えて見るが好《い》い。高等な労力に高等な報酬が伴うであろうか――諸君どう思います――返事がなければ説明しなければならん。報酬なるものは眼前の利害にもっとも影響の多い事情だけできめられるのである。だから今の世でも教師の報酬は小商人《こあきんど》の報酬よりも少ないのである。眼前以上の遠い所高い所に労力を費やすものは、いかに将来のためになろうとも、国家のためになろうとも、人類のためになろうとも報酬はいよいよ減ずるのである。だによって労力の高下《こうげ》では報酬の多寡《たか》はきまらない。金銭の分配は支配されておらん。したがって金のあるものが高尚な労力をしたとは限らない。換言すれば金があるから人間が高尚だとは云えない。金を目安《めやす》にして人物の価値をきめる訳には行かない」
 滔々《とうとう》として述べて来た道也はちょっとここで切って、満場の形勢を観望した。活版に押した演説は生命がない。道也は相手しだいで、どうとも変わるつもりである。満場は思ったより静かである。
「それを金があるからと云うてむやみにえらがるのは間違っている。学者と喧嘩《けんか》する資格があると思ってるのも間違っている。気品のある人々に頭を下げさせるつもりでいるのも間違っている。――少しは考えても見るがいい。いくら金があっても病気の時は医者に降参しなければなるまい。金貨を煎《せん》じて飲む訳には行かない……」
 あまり熱心な滑稽《こっけい》なので、思わず噴き出したものが三四人ある。道也先生は気がついた。
「そうでしょう――金貨を煎《せん》じたって下痢《げり》はとまらないでしょう。――だから御医者に頭を下げる。その代り御医者は――金に頭を下げる」
 道也先生はにやにやと笑った。聴衆もおとなしく笑う。
「それで好《い》いのです。金に頭を下げて結構です――しかし金持はいけない。医者に頭を下げる事を知ってながら、趣味とか、嗜好《しこう》とか、気品とか人品とか云う事に関して、学問のある、高尚な理窟《りくつ》のわかった人に頭を下げることを知らん。のみならずかえって金の力で、それらの頭をさげさせようとする。――盲目《めくら》蛇《へび》に怖《お》じずとはよく云ったものですねえ」
と急に会話調になったのは曲折があった。
「学問のある人、訳のわかった人は金持が金の力で世間に利益を与うると同様の意味において、学問をもって、わけの分ったところをもって社会に幸福を与えるのである。だからして立場こそ違え、彼らはとうてい冒《おか》し得べからざる地位に確たる尻《しり》を据《す》えているのである。
「学者がもし金銭問題にかかれば、自己の本領を棄《す》てて他の縄張内《なわばりうち》に這入《はい》るのだから、金持ちに頭を下げるが順当であろう。同時に金以上の趣味とか文学とか人生とか社会とか云う問題に関しては金持ちの方が学者に恐れ入って来なければならん。今、学者と金持の間に葛藤《かっとう》が起るとする。単に金銭問題ならば学者は初手《しょて》から無能力である。しかしそれが人生問題であり、道徳問題であり、社会問題である以上は彼ら金持は最初から口を開く権能《けんのう》のないものと覚悟をして絶対的に学者の前に服従しなければならん。岩崎は別荘を立て連《つ》らねる事において天下の学者を圧倒しているかも知れんが、社会、人生の問題に関しては小児と一般である。十万坪の別荘を市の東西南北に建てたから天下の学者を凹《へこ》ましたと思うのは凌雲閣《りょううんかく》を作ったから仙人《せんにん》が恐れ入ったろうと考えるようなものだ……」
 聴衆は道也の勢《いきおい》と最後の一句の奇警なのに気を奪われて黙っている。独《ひと》り高柳君がたまらなかったと見えて大きな声を出して喝采《かっさい》した。
「商人が金を儲《もう》けるために金を使うのは専門上の事で誰も容喙《ようかい》が出来ぬ。しかし商買上に使わないで人事上にその力を利用するときは、訳のわかった人に聞かねばならぬ。そうしなければ社会の悪を自《みずか》ら醸造《じょうぞう》して平気でいる事がある。今の金持の金のある一部分は常にこの目的に向って使用されている。それと云うのも彼ら自身が金の主《しゅ》であるだけで、他の徳、芸の主でないからである。学者を尊敬する事を知らんからである。いくら教えても人の云う事が理解出来んからである。災《わざわい》は必ず己《おの》れに帰る。彼らは是非共《ぜひとも》学者文学者の云う事に耳を傾けねばならぬ時期がくる。耳を傾けねば社会上の地位が保《たも》てぬ時期がくる」
 聴衆は一度にどっと鬨《とき》を揚《あ》げた。高柳君は肺病にもかかわらずもっとも大《おおい》なる鬨を揚げた。生れてから始めてこんな痛快な感じを得た。襟巻《えりまき》に半分顔を包んでから風のなかをここまで来た甲斐《かい》はあると思う。
 道也先生は予言者のごとく凛《りん》として壇上に立っている。吹きまくる木枯《こがらし》は屋《おく》を撼《うご》かして去る。

        十二

「ちっとは、好《い》い方かね」と枕元へ坐る。
 六畳の座敷は、畳がほけて、とんと打ったら夜でも埃《ほこ》りが見えそうだ。宮島産の丸盆に薬瓶《くすりびん》と験温器《けんおんき》がいっしょに乗っている。高柳君は演説を聞いて帰ってから、とうとう喀血《かっけつ》してしまった。
「今日はだいぶいい」と床の上に起き返って後《うしろ》から掻巻《かいまき》を背《せ》の半分までかけている。
 中野君は大島紬《おおしまつむぎ》の袂《たもと》から魯西亜皮《ロシアがわ》の巻莨入《まきたばこいれ》を出しかけたが、
「うん、煙草《たばこ》を飲んじゃ、わるかったね」とまた袂のなかへ落す。
「なに構わない。どうせ煙草ぐらいで癒《なお》りゃしないんだから」と憮然《ぶぜん》としている。
「そうでないよ。初《はじめ》が肝心《かんじん》だ。今のうち養生しないといけない。昨日《きのう》医者へ行って聞いて見たが、なに心配するほどの事もない。来たかい医者は」
「今朝来た。暖《あった》かにしていろと云った」
「うん。暖かにしているがいい。この室《へや》は少し寒いねえ」と中野君は侘《わび》し気《げ》に四方《あたり》を見廻した。
「あの障子《しょうじ》なんか、宿の下女にでも張らしたらよかろう。風が這入《はい》って寒いだろう」
「障子だけ張ったって……」
「転地でもしたらどうだい」
「医者もそう云うんだが」
「それじゃ、行くがいい。今朝そう云ったのかね」
「うん」
「それから君は何と答えた」
「何と答えるったって、別に答えようもないから……」
「行けばいいじゃないか」
「行けばいいだろうが、ただはいかれない」
 高柳君は元気のない顔をして、自分の膝頭《ひざがしら》へ眼を落した。瓦斯双子《ガスふたこ》の端《はじ》から鼠色《ねずみいろ》のフラネルが二寸ばかり食《は》み出《だ》している。寸法も取らず別々に仕立てたものだろう。
「それは心配する事はない。僕がどうかする」
 高柳君は潤《うるおい》のない眼を膝から移して、中野君の幸福な顔を見た。この顔しだいで返答はきまる。
「僕がどうかするよ。何《なん》だって、そんな眼をして見るんだ」
 高柳君は自分の心が自分の両眼《りょうがん》から、外を覗《のぞ》いていたのだなと急に気がついた。
「君に金を借りるのか」
「借りないでもいいさ……」
「貰うのか」
「どうでもいいさ。そんな事を気に掛ける必要はない」
「借りるのはいやだ」
「じゃ借りなくってもいいさ」
「しかし貰う訳には行かない」
「六《む》ずかしい男だね。何だってそんなにやかましくいうのだい。学校にいる時分は、よく君の方から金を借せの、西洋料理を奢《おご》れのとせびったじゃないか」
「学校にいた時分は病気なんぞありゃしなかったよ」
「平生《ふだん》ですら、そうなら病気の時はなおさらだ。病気の時に友達が世話をするのは、誰から云ったっておかしくはないはずだ」
「そりゃ世話をする方から云えばそうだろう」
「じゃ君は何か僕に対して不平な事でもあるのかい」
「不平はないさありがたいと思ってるくらいだ」
「それじゃ心快《こころよ》く僕の云う事を聞いてくれてもよかろう。自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て、見られる僕らまでを不愉快にする必要はないじゃないか」
 高柳君はしばらく返事をしない。なるほど自分は世の中を不愉快にするために生きてるのかも知れない。どこへ出ても好かれた事がない。どうせ死ぬのだから、なまじい人の情《なさけ》を恩に着るのはかえって心苦しい。世の中を不愉快にするくらいな人間ならば、中野一人を愉快にしてやったって五十歩百歩だ。世の中を不愉快にするくらいな人間なら、また一日も早く死ぬ方がましである。
「君の親切を無《む》にしては気の毒だが僕は転地なんか、したくないんだから勘弁《かんべん》してくれ」
「またそんなわからずやを云う。こう云う病気は初期が大切だよ。時期を失《しっ》すると取り返しがつかないぜ」
「もう、とうに取り返しがつかないんだ」と山の上から飛び下りたような事を云う。
「それが病気だよ。病気のせいでそう悲観するんだ」
「悲観するって希望のないものは悲観するのは当り前だ。君は必要がないから悲観しないのだ」
「困った男だなあ」としばらく匙《さじ》を投げて、すいと起《た》って障子をあける。例の梧桐《ごとう》が坊主《ぼうず》の枝を真直《まっすぐ》に空に向って曝《さら》している。
「淋《さび》しい庭だなあ。桐《きり》が裸で立っている」
「この間まで葉が着いてたんだが、早いものだ。裸の桐に月がさすのを見た事があるかい。凄《すご》い景色《けしき》だ」
「そうだろう。――しかし寒いのに夜る起きるのはよくないぜ。僕は冬の月は嫌《きらい》だ。月は夏がいい。夏のいい月夜に屋根舟に乗って、隅田川から綾瀬《あやせ》の方へ漕《こ》がして行って銀扇《ぎんせん》を水に流して遊んだら面白いだろう」
「気楽云ってらあ。銀扇を流すたどうするんだい」
「銀泥《ぎんでい》を置いた扇を何本も舟へ乗せて、月に向って投げるのさ。
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