ンを温かに右の腋下《えきか》に護《まも》りたる演奏者は、ぐるりと戸側《とぎわ》に体《たい》を回《めぐ》らして、薄紅葉《うすもみじ》を点じたる裾模様《すそもよう》を台上に動かして来る。狂うばかりに咲き乱れたる白菊の花束を、飄《ひるが》える袖《そで》の影に受けとって、なよやかなる上躯《じょうく》を聴衆の前に、少しくかがめたる時、高柳は感じた。――この女の楽を聴《き》いたのは、聴かされたのではない。聴かさぬと云うを、ひそかに忍び寄りて、偸《ぬす》み聴いたのである。
 演奏は喝采《かっさい》のどよめきの静まらぬうちにまた始まる。聴衆はとっさの際にことごとく死んでしまう。高柳君はまた自由になった。何だか広い原にただ一人立って、遥《はる》かの向うから熟柿《じゅくし》のような色の暖かい太陽が、のっと上《のぼ》ってくる心持ちがする。小供のうちはこんな感じがよくあった。今はなぜこう窮屈になったろう。右を見ても左を見ても人は我を擯斥《ひんせき》しているように見える。たった一人の友達さえ肝心《かんじん》のところで無残《むざん》の手をぱちぱち敲《たた》く。たよる所がなければ親の所へ逃げ帰れと云う話もある。その
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