へ送ろうと思ったんだが……」
「いいえ。あすこへさ」
「あすことは。――うん。あすこか。何、ありゃ、いいんだ。自分でも買ったんだ」
高柳君は何とも返事をしないで、相手を真正面から見ている。中野君は少々恐縮の微笑を洩《も》らして、右の手に握ったままの、山羊《やぎ》の手袋で外套《がいとう》の胸をぴしゃぴしゃ敲《たた》き始めた。
「穿《は》めもしない手袋を握ってあるいてるのは何のためだい」
「なに、今ちょっと隠袋《ポッケット》から出したんだ」と云いながら中野君は、すぐ手袋をかくしの裏《うち》に収めた。高柳君の癇癪《かんしゃく》はこれで少々治《おさ》まったようである。
ところへ後ろからエーイと云う掛声がして蹄《ひづめ》の音が風を動かしてくる。両人《ふたり》は足早に道傍《みちばた》へ立ち退《の》いた。黒塗《くろぬり》のランドーの蓋《おおい》を、秋の日の暖かきに、払い退けた、中には絹帽《シルクハット》が一つ、美しい紅《くれな》いの日傘《ひがさ》が一つ見えながら、両人の前を通り過ぎる。
「ああ云う連中が行くのかい」と高柳君が顋《あご》で馬車の後ろ影を指《さ》す。
「あれは徳川侯爵だよ」と中野君は
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