ました」と細君はまた台所へ引き返す。
道也先生は正面の床《とこ》の片隅に寄せてあった、洋灯《ランプ》を取って、椽側《えんがわ》へ出て、手ずから掃除《そうじ》を始めた。何か原稿用紙のようなもので、油壺《あぶらつぼ》を拭《ふ》き、ほやを拭き、最後に心《しん》の黒い所を好い加減になすくって、丸めた紙は庭へ棄《す》てた。庭は暗くなって様子が頓《とん》とわからない。
机の前へ坐った先生は燐寸《マッチ》を擦《す》って、しゅっと云う間《ま》に火をランプに移した。室《へや》はたちまち明《あきら》かになる。道也先生のために云えばむしろ明かるくならぬ方が増しである。床はあるが、言訳《いいわけ》ばかりで、現《げん》に幅《ふく》も何も懸《かか》っておらん。その代り累々《るいるい》と書物やら、原稿紙やら、手帳やらが積んである。机は白木《しらき》の三宝《さんぽう》を大きくしたくらいな単簡《たんかん》なもので、インキ壺《つぼ》と粗末な筆硯《ひっけん》のほかには何物をも載《の》せておらぬ。装飾は道也先生にとって不必要であるのか、または必要でもこれに耽《ふけ》る余裕がないのかは疑問である。ただ道也先生がこの一点の温
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