な》いでいるようでは馬車馬が秣《まぐさ》を食って終日《しゅうじつ》馳《か》けあるくと変りはなさそうだ。おれ[#「おれ」に傍点]にはおれ[#「おれ」に傍点]がある。このおれ[#「おれ」に傍点]を出さないでぶらぶらと死んでしまうのはもったいない。のみならず親の手前世間の手前面目ない。人から土偶《でく》のようにうとまれるのも、このおれ[#「おれ」に傍点]を出す機会がなくて、鈍根《どんこん》にさえ立派に出来る翻訳の下働きなどで日を暮らしているからである。どうしても無念だ。石に噛《か》みついてもと思う矢先に道也《どうや》の演説を聞いて床についた。医者は大胆にも結核の初期だと云う。いよいよ結核なら、とても助からない。命のあるうちにとまた旧稿に向って見たが、綯《よ》る縄《なわ》は遅く、逃げる泥棒は早い。何一つ見やげも置かないで、消えて行くかと思うと、熱さえ余計に出る。これ一つ纏《まと》めれば死んでも言訳《いいわけ》は立つ。立つ言訳を作るには手当もしなければならん。今の百円は他日の万金よりも貴《たっと》い。
百円を懐《ふところ》にして室《へや》のなかを二度三度廻る。気分も爽《さわや》かに胸も涼しい。
前へ
次へ
全222ページ中215ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング