はんもん》は大《おおい》なる事実であって、事実の前にはいかなるものも頭を下げねばならぬ訳だからどうする事も出来ないのである」
道也先生はまた顔をあげた。しかし彼の長い蒼白《あおじろ》い相貌《そうぼう》の一微塵《いちみじん》だも動いておらんから、彼の心のうちは無論わからない。
「我々が生涯《しょうがい》を通じて受ける煩悶《はんもん》のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度《ひとた》びこの煩悶の炎火《えんか》のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭《めいりょう》になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯|悟《さと》る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦《くるし》みを甞《な》めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人《ごじん》をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱《げだつ》せしむるのである。……」
「そのくらいなところで」と道也先生は三度目に顔を挙《あ》げた。
「まだ少しあるんですが……」
「承《うけたまわ》るのはいいですが、だいぶ多人数の意見を載せるつもりですから、かえってあとから削除《さくじょ》すると失礼になりますから」
「そうですか、それじゃそのくらいにして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、さぞ筆記しにくかったでしょう」
「いいえ」と道也先生は手帳を懐《ふところ》へ入れた。
青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例のごとく泰然としてただいいえと云ったのみである。
「いやこれは御邪魔をしました」と客は立ちかける。
「まあいいでしょう」と中野君はとめた。せめて自分の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。それでなくても、せんだって日比谷で聞いた高柳君の事をちょっと好奇心から、あたって見たいのである。一言《いちごん》にして云えば中野君はひまなのである。
「いえ、せっかくですが少々急ぎますから」と客はもう椅子《いす》を離れて、一歩テーブルを退《しりぞ》いた。いかにひまな中野君も「それでは」とついに降参して御辞儀《おじぎ》をする。玄関まで送って出た時思い切って
「あなたは、もしや高柳周作《たかやなぎしゅうさく》と云う男を御存じじゃないですか」と念晴《ねんば》らしのため聞いて見る。
「高柳? どうも知らんようです」と沓脱《くつぬぎ》から片足をタタキへおろして、高い背を半分後ろへ捩《ね》じ向けた。
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋《きし》る音がして梶棒《かじぼう》は硝子《ガラス》の扉《とびら》の前にとまった。道也先生が扉を開く途端《とたん》に車上の人はひらり厚い雪駄《せった》を御影《みかげ》の上に落した。五色の雲がわが眼を掠《かす》めて過ぎた心持ちで往来へ出る。
時計はもう四時過ぎである。深い碧《みど》りの上へ薄いセピヤを流した空のなかに、はっきりせぬ鳶《とび》が一羽舞っている。雁《かり》はまだ渡って来ぬ。向《むこう》から袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取った小供が唱歌を謡《うた》いながら愉快そうにあるいて来た。肩に担《かつ》いだ笹《ささ》の枝には草の穂で作った梟《ふくろう》が踊りながらぶら下がって行く。おおかた雑子《ぞうし》ヶ谷《や》へでも行ったのだろう。軒の深い菓物屋《くだものや》の奥の方に柿ばかりがあかるく見える。夕暮に近づくと何となくうそ寒い。
薬王寺前《やくおうじまえ》に来たのは、帽子の庇《ひさし》の下から往来《ゆきき》の人の顔がしかと見分けのつかぬ頃である。三十三|所《じょ》と彫《ほ》ってある石標《せきひょう》を右に見て、紺屋《こんや》の横町を半丁ほど西へ這入《はい》るとわが家《や》の門口《かどぐち》へ出る、家《いえ》のなかは暗い。
「おや御帰り」と細君が台所で云う。台所も玄関も大した相違のないほど小さな家である。
「下女はどっかへ行ったのか」と二畳の玄関から、六畳の座敷へ通る。
「ちょっと、柳町まで使に行き
前へ
次へ
全56ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング