ました」と細君はまた台所へ引き返す。
道也先生は正面の床《とこ》の片隅に寄せてあった、洋灯《ランプ》を取って、椽側《えんがわ》へ出て、手ずから掃除《そうじ》を始めた。何か原稿用紙のようなもので、油壺《あぶらつぼ》を拭《ふ》き、ほやを拭き、最後に心《しん》の黒い所を好い加減になすくって、丸めた紙は庭へ棄《す》てた。庭は暗くなって様子が頓《とん》とわからない。
机の前へ坐った先生は燐寸《マッチ》を擦《す》って、しゅっと云う間《ま》に火をランプに移した。室《へや》はたちまち明《あきら》かになる。道也先生のために云えばむしろ明かるくならぬ方が増しである。床はあるが、言訳《いいわけ》ばかりで、現《げん》に幅《ふく》も何も懸《かか》っておらん。その代り累々《るいるい》と書物やら、原稿紙やら、手帳やらが積んである。机は白木《しらき》の三宝《さんぽう》を大きくしたくらいな単簡《たんかん》なもので、インキ壺《つぼ》と粗末な筆硯《ひっけん》のほかには何物をも載《の》せておらぬ。装飾は道也先生にとって不必要であるのか、または必要でもこれに耽《ふけ》る余裕がないのかは疑問である。ただ道也先生がこの一点の温気《おんき》なき陋室《ろうしつ》に、晏如《あんじょ》として筆硯を呵《か》するの勇気あるは、外部より見て争うべからざる事実である。ことによると先生は装飾以外のあるものを目的にして、生活しているのかも知れない。ただこの争うべからざる事実を確めれば、確かめるほど細君は不愉快である。女は装飾をもって生れ、装飾をもって死ぬ。多数の女はわが運命を支配する恋さえも装飾視して憚《はば》からぬものだ。恋が装飾ならば恋の本尊たる愛人は無論装飾品である。否《いな》、自己自身すら装飾品をもって甘んずるのみならず、装飾品をもって自己を目《もく》してくれぬ人を評して馬鹿と云う。しかし多数の女はしかく人世を観《かん》ずるにもかかわらず、しかく観ずるとはけっして思わない。ただ自己の周囲を纏綿《てんめん》する事物や人間がこの装飾用の目的に叶《かな》わぬを発見するとき、何となく不愉快を受ける。不愉快を受けると云うのに周囲の事物人間が依然として旧態をあらためぬ時、わが眼に映ずる不愉快を左右前後に反射して、これでも改めぬかと云う。ついにはこれでもか、これでもかと念入りの不愉快を反射する。道也の細君がここまで進歩しているかは疑問である。しかし普通一般の女性であるからには装飾気なきこの空気のうちに生息《せいそく》する結果として、自然この方向に進行するのが順当であろう。現に進行しつつあるかも知れぬ。
道也先生はやがて懐《ふところ》から例の筆記帳を出して、原稿紙の上へ写し始めた。袴《はかま》を着けたままである。かしこまったままである。袴を着けたまま、かしこまったままで、中野輝一《なかのきいち》の恋愛論を筆記している。恋とこの室《へや》、恋とこの道也とはとうてい調和しない。道也は何と思って浄書しているかしらん。人は様々である、世も様々である。様々の世に、様々の人が動くのもまた自然の理である。ただ大きく動くものが勝ち、深く動くものが勝たねばならぬ。道也は、あの金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を掛けた恋愛論よりも、小さくかつ浅いと自覚して、かく慎重に筆記を写し直しているのであろうか。床《とこ》の後《うし》ろで※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が鳴いている。
細君が襖《ふすま》をすうと開けた。道也は振り向きもしない。「まあ」と云ったなり細君の顔は隠れた。
下女は帰ったようである。煮豆《にまめ》が切れたから、てっか味噌《みそ》を買って来たと云っている。豆腐《とうふ》が五厘高くなったと云っている。裏の専念寺で夕《ゆうべ》の御務《おつと》めをかあんかあんやっている。
細君の顔がまた襖の後ろから出た。
「あなた」
道也先生は、いつの間にやら、筆記帳を閉じて、今度はまた別の紙へ、何か熱心に認《したた》めている。
「あなた」と妻君は二度呼んだ。
「何だい」
「御飯です」
「そうか、今行くよ」
道也先生はちょっと細君と顔を合せたぎり、すぐ机へ向った。細君の顔もすぐ消えた。台所の方でくすくす笑う声がする。道也先生はこの一節をかき終るまでは飯も食いたくないのだろう。やがて句切りのよい所へ来たと見えて、ちょっと筆を擱《お》いて、傍《そば》へ積んだ草稿をはぐって見て「二百三十一|頁《ページ》」と独語した。著述でもしていると見える。
立って次の間へ這入《はい》る。小さな長火鉢《ながひばち》に平鍋《ひらなべ》がかかって、白い豆腐が煙りを吐《は》いて、ぷるぷる顫《ふる》えている。
「湯豆腐かい」
「はあ、何にもなくて、御気の毒ですが……」
「何、なんでもいい。食ってさえいれば何でも構わない」と、
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