綿入に縮緬《ちりめん》の兵子帯《へこおび》をぐるぐる巻きつけて、金縁《きんぶち》の眼鏡越《めがねごし》に、道也先生をまぼしそうに見て、「や、御待たせ申しまして」と椅子へ腰をおろす。
 道也先生は、あやしげな、銘仙《めいせん》の上を蔽《おお》うに黒木綿《くろもめん》の紋付をもってして、嘉平次平《かへいじひら》の下へ両手を入れたまま、
「どうも御邪魔をします」と挨拶《あいさつ》をする。泰然《たいぜん》たるものだ。
 中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにしていたが、やがて思い切った調子で
「あなたが、白井道也とおっしゃるんで」と大《おおい》なる好奇心をもって聞いた。聞かんでも名刺を見ればわかるはずだ。それをかように聞くのは世馴《よな》れぬ文学士だからである。
「はい」と道也先生は落ちついている。中野君のあては外《はず》れた。中野君は名刺を見た時はっと思って、頭のなかは追い出された中学校の教師だけになっている。可哀想《かわいそう》だと云う念頭に尾羽《おは》うち枯らした姿を目前に見て、あなたが、あの中学校で生徒からいじめられた白井さんですかと聞き糺《ただ》したくてならない。いくら気の毒でも白井違いで気の毒がったのでは役に立たない。気の毒がるためには、聞き糺すためには「あなたが白井道也とおっしゃるんで」と切り出さなくってはならなかった。しかしせっかくの切り出しようも泰然たる「はい」のために無駄死《むだじに》をしてしまった。初心《しょしん》なる文学士は二の句をつぐ元気も作略《さりゃく》もないのである。人に同情を寄せたいと思うとき、向《むこう》が泰然の具足で身を固めていては芝居にはならん。器用なものはこの泰然の一角《いっかく》を針で突き透《とお》しても思《おもい》を遂《と》げる。中野君は好人物ながらそれほどに人を取り扱い得るほど世の中を知らない。
「実は今日御邪魔に上がったのは、少々御願があって参ったのですが」と今度は道也先生の方から打って出る。御願は同情の好敵手である。御願を持たない人には同情する張り合がない。
「はあ、何でも出来ます事なら」と中野君は快く承知した。
「実は今度|江湖雑誌《こうこざっし》で現代青年の煩悶《はんもん》に対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありまして、それで普通の大家ばかりでは面白くないと云うので、なるべく新しい方もそれぞれ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支《おさしつかえ》がなければ、御話を筆記して参りたいと思います」
 道也先生は静かに懐《ふところ》から手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければ強《し》いて話させたい景色《けしき》も見えない。彼はかかる愚《ぐ》な問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えていない。
「なるほど」と青年は、耀《かが》やく眼を挙《あ》げて、道也先生を見たが、先生は宵越《よいごし》の麦酒《ビール》のごとく気の抜けた顔をしているので、今度は「さよう」と長く引っ張って下を向いてしまった。
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない。
「そうですね。あったって、僕のようなものの云う事は雑誌へ載《の》せる価値はありませんよ」
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いていらしったんです。あまり突然じゃ纏《まとま》った話の出来るはずがないですから」
「御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで」
「いえ、どうしまして」と中野君は横を向いた。
「何でもよいですから、少し御話し下さい」
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇《ちゅうちょ》している。
「せっかく来たものですから」
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。
「いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三日坊主《みっかぼうず》のものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まってから、世の中がなくなるまで続くので、ちっとも問題にはならないでしょう」
「ふん」と道也先生は下を向いたなり、鉛筆を動かしている。紙の上を滑《すべ》らす音が耳立って聞える。
「しかし多くの青年が一度は必ず陥《おちい》る、また必ず陥るべく自然から要求せられている深刻な煩悶が一つある。……」
 鉛筆の音がする。
「それは何だと云うと――恋である……」
 道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今さら気がついたようにちょっとしょげ返ったが、すぐ気を取り直して、あとをつづけた。
「ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるが、この種の煩悶《
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