《ひるめし》の客は皆去り尽して、二人が椅子《いす》を離れた頃はところどころの卓布《たくふ》の上に麺麭屑《パンくず》が淋しく散らばっていた。公園の中は最前よりも一層|賑《にぎや》かである。ロハ台は依然として、どこの何某《なにがし》か知らぬ男と知らぬ女で占領されている。秋の日は赫《かっ》として夏服の背中を通す。

        三

 檜《ひのき》の扉《とびら》に銀のような瓦《かわら》を載《の》せた門を這入《はい》ると、御影《みかげ》の敷石に水を打って、斜《なな》めに十歩ばかり歩《あゆ》ませる。敷石の尽きた所に擦《す》り硝子《ガラス》の開き戸が左右から寂然《じゃくねん》と鎖《とざ》されて、秋の更《ふ》くるに任すがごとく邸内は物静かである。
 磨《みが》き上げた、柾《まさ》の柱に象牙《ぞうげ》の臍《へそ》をちょっと押すと、しばらくして奥の方から足音が近づいてくる。がちゃと鍵《かぎ》をひねる。玄関の扉は左右に開かれて、下は鏡のようなたたきとなる。右の方に周囲《まわり》一|尺余《しゃくよ》の朱泥《しゅでい》まがいの鉢《はち》があって、鉢のなかには棕梠竹《しゅろちく》が二三本|靡《なび》くべき風も受けずに、ひそやかに控えている。正面には高さ四尺の金屏《きんびょう》に、三条《さんじょう》の小鍛冶《こかじ》が、異形《いぎょう》のものを相槌《あいづち》に、霊夢《れいむ》に叶《かな》う、御門《みかど》の太刀《たち》を丁《ちょう》と打ち、丁と打っている。
 取次に出たのは十八九のしとやかな下女である。白井道也《しらいどうや》と云《い》う名刺を受取ったまま、あの若旦那様で? と聞く。道也先生は首を傾《かたむ》けてちょっと考えた。若旦那にも大旦那にも中野と云う人に逢うのは今が始めてである。ことによるとまるで逢えないで帰るかも計《はか》られん。若旦那か大旦那かは逢って始めてわかるのである。あるいは分らないで生涯《しょうがい》それぎりになるかも知れない。今まで訪問に出懸《でか》けて、年寄か、小供か、跛《ちんば》か、眼っかちか、要領を得る前に門前から追い還《かえ》された事は何遍もある。追い還されさえしなければ大旦那か若旦那かは問うところでない。しかし聞かれた以上はどっちか片づけなければならん。どうでもいい事を、どうでもよくないように決断しろと逼《せま》らるる事は賢者《けんじゃ》が愚物《ぐぶつ》に対して払う租税である。
「大学を御卒業になった方《ほう》の……」とまで云ったが、ことによると、おやじも大学を卒業しているかも知れんと心づいたから
「あの文学をおやりになる」と訂正した。下女は何とも云わずに御辞儀《おじぎ》をして立って行く。白足袋《しろたび》の裏だけが目立ってよごれて見える。道也先生の頭の上には丸く鉄を鋳抜《いぬ》いた、かな灯籠《どうろう》がぶら下がっている。波に千鳥をすかして、すかした所に紙が張ってある。このなかへ、どうしたら灯《ひ》がつけられるのかと、先生は仰向《あおむ》いて長い鎖《くさ》りを眺《なが》めながら考えた。
 下女がまた出てくる。どうぞこちらへと云う。道也先生は親指の凹《くぼ》んで、前緒《まえお》のゆるんだ下駄を立派な沓脱《くつぬぎ》へ残して、ひょろ長い糸瓜《へちま》のようなからだを下女の後ろから運んで行く。
 応接間は西洋式に出来ている。丸い卓《テーブル》には、薔薇《ばら》の花を模様に崩《くず》した五六輪を、淡い色で織り出したテーブル掛《かけ》を、雑作《ぞうさ》もなく引き被《かぶ》せて、末は同じ色合の絨毯《じゅうたん》と、続《つ》づくがごとく、切れたるがごとく、波を描《えが》いて床《ゆか》の上に落ちている。暖炉《だんろ》は塞《ふさ》いだままの一尺前に、二枚折《にまいおり》の小屏風《こびょうぶ》を穴隠しに立ててある。窓掛は緞子《どんす》の海老茶色《えびちゃいろ》だから少々全体の装飾上調和を破るようだが、そんな事は道也先生の眼には入《い》らない。先生は生れてからいまだかつてこんな奇麗《きれい》な室《へや》へ這入《はい》った事はないのである。
 先生は仰いで壁間《へきかん》の額を見た。京の舞子が友禅《ゆうぜん》の振袖《ふりそで》に鼓《つづみ》を調べている。今打って、鼓から、白い指が弾《はじ》き返されたばかりの姿が、小指の先までよくあらわれている。しかし、そんな事に気のつく道也先生ではない。先生はただ気品のない画《え》を掛けたものだと思ったばかりである。向《むこう》の隅《すみ》にヌーボー式の書棚があって、美しい洋書の一部が、窓掛の隙間《すきま》から洩《も》れて射《さ》す光線に、金文字の甲羅《こうら》を干《ほ》している。なかなか立派である。しかし道也先生これには毫《ごう》も辟易《へきえき》しなかった。
 ところへ中野君が出てくる。紬《つむぎ》の
前へ 次へ
全56ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング